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No.66 2018.12.04 そして今年も≪ゼロ次元≫の巨人逝く!
この夏の猛暑は想像以上で、老人にとっては大きな痛手~~≪月間≫と銘打ちながらも随分サボってしまい、誠に申し訳ありませんでした!
さてこの秋に、愛知県で開催された≪第23回アートフィルム・フェスティバル≫の10月2日には、〈追悼:ゼロ次元〉と題して半世紀前に作った私達の処女作・『無人列島』が上映されました。
その作品の中で当時名古屋で結成されていたモダンアートの過激派集団:≪ゼロ次元≫のメンバーが重要な役柄で登場してくれていたのです!
彼らのモットーは「人間の行為をゼロに導く」というコンセプトで1963年に結成され、様々な過激なパフォーマンスを至る所で繰り広げ、当時の美術誌や週刊誌などを大いに賑わしていたのです!
やがてそのリーダーの加藤好弘氏はその拠点を東京に移しましたが、もうひとりのリーダーの岩田信市氏は名古屋に留まり、東京と連携を取りながらも地元ならではの活動を続けていました!
岩田氏は、後にその<ゼロ次元>活動の延長線上として、名古屋を拠点に1979年に座長に原智彦氏を据え、「ロック歌舞伎スーパー 一座」を結成~~その主宰として国内はもとより、海外へも進出しヨーロッパでの公演は何と230回余り~~特にドイツ公演での『リア王』(原作・シェイクスピア)は話題を呼び、毎回スタンディングオベーションが何時までも鳴り止まなかったそうです:-))))))))))
やがてその「ロック歌舞伎スーパー 一座」も2008年12月に解散~~そして岩田信市さんは昨年の八月六日にお亡くなりになりました!
殺された母(青木一子)の敵討ちに向かう≪ゼロ次元の舞≫ 先頭が加藤さん |
国会議事堂をバックに日出国に 立ち向かう大男役の岩田さん |
さて話を『無人列島』に戻しますと、脚本を書き終えた段階で映画評論家の佐藤重臣さんを通してそれを加藤さんに届けて頂きましたが、「面白そうなので是非会いたい!」というお返事を貰いました:-))))))))))
そこで渋谷の高級マンションの中に、≪電気工事 ゼロ次元商会≫というプレートを見付け、初めて話題の人=加藤好弘氏にお会い出来たという次第です!
彼らの出演シーンを中心に話し合いを行いましたが、その中で国会議事堂前で主人公の日出国(串田和美)と立ち回りをする大男役がまだ決まってないというと、「この役なら、名古屋にいる岩田信市の他にはいないだろう!」ということで、岩田さんにお会いする前に即決です:-))))))))))
加藤さんと≪ゼロ次元商会≫の社員でもあったパフォーマーの永田さん、松葉さん、上條さんと先述の重臣さんは、新聞紙で張り巡らされたアパートの一室で日出国に犯され殺害された団地妻から次々と出産してくる子供たちの役~~この出産シーンはほぼ加藤さんの指導の下に行われました:-))))))))))
ところで、この作品の制作時の背景ですが、アメリカにおけるベトナム戦争への反戦運動などを皮切りに、その若者たちの怒りの炎はイギリスやフランスなどへも飛び火し、やがて日本でも~~!
あの東大闘争、日大闘争の真っ只中、これはその1968年秋のクランク・インとなりました!
そんな激動の中で作られた『無人列島』~~自主上映の後、京大のバリ祭を皮切りに、東大映研での上映会を含めて、全国の学園祭などへと大きく広がっていきました!
その一方、新しいシュールレアリスム作品として、ヨーロッパの国々からも評価され、後年ベルギーに呼ばれた時、通訳の女性が加藤さんのファンだったことなどもあって、トークショーは大いに盛り上がりました:-))))))))))
その≪ゼロ次元≫を先頭に様々な過激派前衛美術集団は、翌’70年に開催された大阪万博に反旗を翻した≪アンチ万博≫活動を展開しましたが、内部分裂などもあってか徐々にその勢いは衰えて行きました!
が、韓国の光州に≪アジア文化センター≫が誕生すると、2016年8月に「加藤好弘オーラル・ヒストリー」が組まれ、加藤さんと≪ゼロ次元≫は、不死鳥のごとく蘇ってきました:-))))))))))
国内でも、六本木ヒルズの森美術館でのワンマンショー~~隣室に展示された往時の写真、そして週刊誌や美術書などの数の多さに圧倒されました:-))))))))))
その時のトークショーも元気いっぱいで、同い年の私としては大いなる勇気を頂きました~~が、今年の二月九日にお亡くなりになったいう報せが飛び込んできて、その思いもせぬ出来事に仰天:-?!?!?!?!?!
生まれ出たものは、何時かは消えます!
しかし、≪ゼロ次元の巨人たち≫の魂は永遠に不滅~~ご冥福をお祈りいたします。
『無人列島』が生み出された時代は
若者たちの不条理に対する怒りの時代!
それがこの時代にどう受け止められるのか心配でしたが
主催者からのメールによると
今の若者たちも様々な理不尽に対する悩みや憤りを感じており
上映後のトークも盛り上がっていたそうです。。。
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No.65 2018. 07.07 久し振りの<映像パフォーマンス>:-))))))))))
東京ドイツ文化センターで≪金井勝+城之内元晴≫の特集が組まれ、『新宿ステーション』、『時が乱吹く』の上映後に、<映像パフォーマンス>と<トーク ショー>を行いました!
先ずジョーさんの『新宿ステーション』が上映され、続いて短歌編・『夢走る』を皮切りに、俳句編・『一本勝負の螽斯』、詩編・『ジョーの詩が聴える』~~そしてそこに幕間2景を挟んでオムニバス作品・『時が乱吹く』・・・それは交通事故によって不慮の死を遂げた城之内元晴氏への追悼作品なのです!
この夜の『新宿ステーション』は、初めてお目にかかる短編バージョンだったので吃驚しましたが、あるいはそれは詩編・『ジョーの詩が聴える』のサウンドと重なるかも知れないと考え、こうした選択になったのかも知れません!
さて、ジョーさんが主役を演じた短歌篇・『夢走る』は時代劇~~これをIFフィルム・フェステバルで発表した時、「実験映画祭で何故時代劇なの!?」と、一部の方からご批判を頂戴しましたが、近い将来ビデオのシステムは更に進化してCGの時代に入るとか、その技術を使うとフィルムでは困難な特殊撮影などもいとも簡単になり、その為にやがてフィルムそのものも無くなると聞かされ、撮影所の技術部出身の私にとっては大いなるショックだったのです:-!!!!!!!!!
ならばと開き直ってアナクロで勝負~~!
アマチュア用のボレックス・カメラを駆使したこの「時代劇」に、全力投球したというわけなのです:-)))))))))
と、どうでしょう~~南半球最大のメルボルン映画祭からオファーが有り、最優秀短編劇映画賞を受賞~~更に文化庁主催の特集・「日本青年映画」の中の一本に選ばれ、欧米諸国で循環上映されてきたのです:-)))))))))
今回の上映でも、『夢走る』の導入部の特撮には確かな手応えを感じました!
特にスイス製のボレックスから流れ出たフィルムが、おでん鍋の中の蒟蒻に入って行くと、間もなくそれが現像されたネガフィルムとなって大根から~~しかもそれが正確なコマ送り運動を刻みながら出てくるのだから、会場全体から歓声が沸き起こります:-)))))))))
こうしたフィルムならではの手作りの実験性が、この追悼作品の全体を刺激し~~時代を超えて我々スタッフの心意気を称えてくれているように感じました:-)))))))))
そして、これからが私の生身の勝負~~カメラを回しながら客席を巡り、「あなたにとってのメイン・マンは?」とか、「ジョーさんに親しみを感じますか?」などと質問し、その映像と音声とを無線でダイレクトにスクリーンに飛ばしましたが、その観客の中にはハーバード大学の二人の助教授も含まれておりました:-)))))))))))
その客席巡りが終わると、次はステージに駆け上り、『ジョーの詩が聴える』の映像を浴びながら、人生の終着駅=黄泉の国へ誘っているようにも見える彼の仕草に対して、返し歌として、「まだまだの詩」を力強く暗誦~~妻・智女の指導の下に、毎朝多摩川の河川敷で練習してきた甲斐があったと思っています:-)))))))))
最後は、平沢剛氏の司会で<トーク ショー>~~私とジョーさんとの関係は、その殆どが<神奈川ニュース映画協会>からでしたが、ジョーさんや私を取り巻く環境は素晴らしかったこと。
スポンサーの担当者には、博学多才で役人らしからぬユニークな柳田主幹がおり、協会にも高い志を持った吉田制作部長~~そういった中でジョーさんを初め私たちは伸びやかにTV作品を作り、放送局からもかなりの評判を得ていたと思います!
そして、前号でも述べましたように、新宿の画廊=Mad Grosse でのジョーさんによるパフォーマンス・バージョンの『新宿ステーション』~~その彼ならではの独創性とその迫力とに心底圧倒されたことなどを、熱っぽく語りました:-)))))))))
手持ちのカメラから観客との
やり取りを無線でダイレクトにスクリーンへ飛ばす機動隊を背にした城之内
それらの映像を背負って「まだまだの詩」を暗誦する金井
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さて、神奈川 ニュース映画協会の有志で制作したこの追悼作品・『時が乱吹く』~~長きにわたって撮影を担当してくれた細井靖明さんは今、山形県の米沢に拠点を置き、山男として大自然の魅力をマルチな形で表現~~その仕事の関係でこのドイツ文化センターのイベントには参加できなかったと、悔やんでいました!
そして先日、東北地方の名山=西吾妻山の一角にある天元台高原のポスターが郵送されてきましたが、そこには確りと撮影:細井靖明とありました:-)))))))))
その山の魅力を伝授したのは多分、神奈川ニューの先輩=田中茂氏(以後 ターさん)で、彼は神奈川の屋根=丹沢山塊を熟知するカメラマン。
その一方で酔うと得意の放浪芸・「飴家唄」を披露してくれていたので、私の第二作:『Good-bye』ではその中の重要な役柄で登場して頂きました!
さて、二日後には何と私も八十二歳~~!
昨日まで出来たことが、今日はもうおぼつかなくなっていたりする~~そんなことが当たり前となってきた今日この頃ですが、ターさんは私より更に年長者~~そこで『時が乱吹く』のスタッフの心意気などを改めてお伝えすると、彼の現在の体調を含めた近況などと一緒に、二枚の写真のコピーが郵送されてきました!
1926年から何と63年も続いた昭和の時代、その後を引き継いで30年の平成時代もあと僅かになりそう~~そこである大手の新聞社が、「一億人の平成史」なる企画展を計画しているそうで、その中にターさんの撮った作品の「掲載通知」が届いているそうです:-))))))))))
その一枚は、昭和天皇崩御の大見出しの新聞~~それを大きく広げて見ている中年らしき乗客。
そしてもう一枚は、氷雨降る銀座の街角で、昭和天皇の遺影を前にして姿勢を正して佇む老人の後ろ姿の写真~~多分ターさんの作品達は、その「一億人の平成史」の導入部辺りに予定されているのかも知れませんね!
彼が拘り、撮り続けてきたのは「昭和の時代」~~我らがターさんは、これからも更に「忘れ得ぬ昭和の残り滓を探し求めてゆく」と元気に仰っています:-)))))))))
『時が乱吹く』のあの頃から随分と長い時間が流れましたが、
このご両名の現在の生き方にも、あの黄金期の表現者の息吹が感じられ、
あの世のジョーさんも、天の川の岸辺から生き残った我々と、
このイベント=≪金井勝+城之内元晴≫とを、
心から喜んで見守っていたと思います:-)))))))))
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No.64 2018.05.28 東京ドイツ文化センターでの「1968ー転換のとき」に参加:-))))))))))
≪映画上映+フィルム・パフォーマンスetc.による=『1968年―転換のとき:抵抗のアクチュアリティについて』という大きなイベントが、 東京ドイツ文化センター(港区赤坂7-5-57)で、5月8日から6月20日まで開催されております。
この大胆なプログラムの概要は、右のチラシをクリック~~あの時代のドイツや日本の映像や展示物、そしてパフォーマンスなどを通して半世紀を経た今を考察して頂ければ、このイベントの参加者のひとりとして光栄です!
さて、私たちのプログラム=≪金井勝+城之内元晴≫は、6月14日(木)の午後7時からで、城之内の映画:『新宿ステーション』(1974)に続いて、金井とその仲間たちによって作られた城之内元晴への追悼作品:『時が乱吹く』(1991)の上映~~その後に金井のトーク&パフォーマンスが予定されております:-))))))))))
このイベントの総合タイトルである≪1968年≫は、私の処女作:『無人列島』のクランク・インの年でもあり、東京大学のインターン制などの医学部教育体制改革要求に端を発した東大闘争、そして約20億円の使途不明金などの発覚を契機に学生たちが立ち上がった日大闘争~~そしてそれまでの価値観の転換を求める学生たちの怒りが、全国に広まっていきつつあった年でもありました!
その様な状況下での自主映画も、当然これまでにない新鮮さと大胆さが求められました!
当時の大学などのクラブ活動では映画研究会の活動も活発で、『無人列島』も自主上映の後、東大、京大を初めとする多くの学園祭などで上映されました。
また同時にこの作品は国境を越え、フランスやイギリスなどからもオファーが有り、映画祭やシネマテークなどで公開されています:-))))))))))
さて、これらの若者たちの怒りの発端は、どうやらあのベトナム戦争で苦悩する若いアメリカ兵たちからのようでしたが、やがて様々な米国内の不平等や既得権などに対する不満などが多角的に募っていきました!
やがてその怒りの炎は国連軍としてベトナム戦争に参加していたイギリスへも飛び火し、ゼネ-ストまで発展し、フランスではパリの大学生が政府の教育政策に不満を爆発させた暴動をきっかけに、労働者や一般市民をも巻き込んだ所謂≪5月革命≫へと発展~~やがてその矛先はカンヌ映画祭などへも向かいました。そしてその隣国であるドイツでも、若者たちの怒りの炎は燃え上がり、様々な形で彼らの<父の時代>への反発などもありました!
さて、我が≪かない勝丸プロダクション≫としては『無人列島』の後、隔年で『Good-bye』、『王国』と、いわゆる≪微笑う銀河系≫三部作の模索中でありましたが、ある時『無人列島』のカメラマン(=私の大学時代の同級生)から電話が入り、「うちの制作部長が君に会いたがっている」ということで、彼の職場である県庁内にあった≪神奈川ニュース映画協会≫に顔を出したら、そこで制作しているTV番組の演出を依頼されました。
しかしそれは「今は無理」だというと、結局は「私が暇なときにカメラマンとして働かせてもらう」ということになりました!
そんな状況の中、第2作:『Good-bye』の準備の為に友人と新宿のバーで会っていると、そこに城之内(以後、ジョーさん)が現れ、何故か、『無人列島』をしきりに褒めるので、ちょっとその魂胆を訝っていたら、次に会った時に「働いていた都映協の大切な資料をなくしちゃつて、、、神奈川ニュースを紹介して貰えると有難いんですが、、、?」と、きました!
ジョーさんは大学の一年後輩でしたが話したことなど殆どなかったのですが、共通の友人からは「独特な才能の持ち主」だと聞かされていたので、とりあえず先述の制作部長に話したところ是非会いたいということで、以後彼は契約者として神奈川ニュースの「エースのジョー」となり、スポンサーからも大いに喜ばれていました:-))))))))))
一方こちらは、1971年のゴールデンウイークに『無人列島』と『Good-bye』の二本立てがATG新宿文化の蠍座で上映されると盛況~~マスコミにも大きく取り上げられました:-)))))))))
そんなある日、新宿の画廊=Mad Grosse からオファーがあり、『Good-bye』とジョーさんの『新宿ステーション』とを上映することになりました!
上映当日、彼は「私のは一寸した仕掛けが有るので後にさせてくれ」と言いましたので、まず『Good-bye』を上映し観客の質問などに答えていると、彼は半袖の白いサファリ―ルックに着替え、その右肩の肩章(エポレット)に何と懐中電灯を捻じ込んでいるではありませんか :-?!?!?!?
そして、それからプロジェクターのスイッチを入れると、「では・・・!」と私に合図をして、「ステーション!ステーション!」と叫びながらスクリーンに向かって進み、彼が撮影した安保闘争の映像をその全身に浴びながら、そして時々懐中電灯に照らされたノートの文字を追いながら、自作のネオダダ風の詩をフォルティッシモの美声で朗読し始めたのでは有りませんか:-))))))))))彼の自主制作の全作品は、神奈川ニュースの試写室などで殆ど拝見しましたが、このMad Grosseでの『新宿ステーション』の≪パフォーマンス版≫こそが、群を抜いて彼の代表作だったと思っています:-))))))))))
私も1973年に『王国』を発表し、<微笑う銀河系>三部作が完結~~その上映の後、演出家としてジョーさんと同じ番組を担当することになり、結局230作ほどの演出作品を作りました!
私のTV作品の特徴は、カメラマン出身なので映像を重視~~メインカメラのミニ・エクレールの他に、特殊撮影が出来るボレックスという言わばアマチュア用のカメラを駆使しましたので、特に「現代文学のアルバム」のような企画は全てこちらに回ってきました!さて、その頃ジョーさんは50歳、私は49歳~~ともに自主制作から遠く離れていたので、「あのルイス・ブニュエルが『忘れられた人々』を撮ったのが50歳~~何時までも怠けてはいられない」と言うと、彼は『アイヌモシリへの道』を撮ると言いました!
私は近い将来フィルムはなくなり、もうすぐビデオもコンピュータグラフィックス=CGの時代になるそうなので、それなら逆にアナクロに徹してボレックスを駆使した時代劇で勝負だと、仕事場のスタッフと作ったのが、『夢走る』(1987)でした:-))))))))))
その暮れに私たちのクルーが三浦半島での取材から帰ってくると、「ジョーさんが交通事故で亡くなった!」と聞かされて、仰天しました!
そこで『夢走る』のスタッフ等と協議し、ジョーさんへの追悼作品として完成させたのが1991年公開の、この『時が乱吹く』なのです:-)))))))))もしお時間がございましたら
ご高覧のほど何卒宜しくお願い致します。
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No.63 2018.04.11 齢八十一歳~~いろんなことが押し寄せてきます:-))))))))))
嬉しきことも、悲しきことも、そして厄介なことなどもごちゃつきながらやって来て、この<月刊 "勝丸">でそのうちの何を取り上げてよいのか判断がつかなくなり、気が付いてみれば春たけなわになっていました!
先ず、1月号でお伝えした池の水漏れの件ですが、大雪の後にそれらしき個所を何とか見付け出し、≪防水セメント≫という池の補修に評判のセメントを使って修復しました:-))))))))))
これで漏水の心配はなくなると思いますが、そんな最中に昨年の暮れに予約しておいた2泊3日の≪オホーツクでの流氷体験ツアー≫の出発の日がやってきたのです!
それも1月の末ごろにはびっしり接岸していた流氷が、南風によって沖合に押戻されてしまったそうなので複雑な気持ち~~中途半端な池の現状と、流氷が去ってしまったという情報~~が、予約をキャンセルする訳にも行きませんので16日の朝、羽田から北海道へ飛んだという次第です!
その結果、私たちにとってこの選択肢は正解だったようで、たとえ本格的な流氷は沖に去っしまったとはいえ、オホーツクの海に浮かぶ流氷をこの目で見られたことは確か~~その光景に圧倒されました:-))))))))))
≪流氷岬≫の碑の前で智女と私 ガリンコ号のフル・S
左側の砕氷装置 ガリンコ号の見事な航跡
冬になると毎年ロシアのアムール川の水が凍って造られた氷が北風にのってオホーツク海を南下し、北海道の紋別付近の海岸に押寄せて来ます。
その氷の上に、時としてアザラシやオジロワシなどが見られるそうですが、今回はどうでしょうか!?
凍てつく風の中でも心をときめかせる初体験~~≪流氷砕氷船=ガリンコ号≫は氷が張り詰めたオホーツク海に出航~~その先端部の両脇にある氷を砕く装置で氷を砕きながら突き進んで行くのです:-))))))))))
案内人によると、今ある氷はシベリヤから流れついた流氷の一部が取り残されのだそうですが、それらに混じってオホーツクの沿岸で造られた氷もあるようです。
残念ながら本格的な≪流氷体験≫とはいかなかったので、氷上の動物たちも見られませんでしたが、これはこれで私にとっては充実した体験でした:-))))))))))
また他に、紋別市内にある博物館や美術館、そして市内から少し離れた≪にしおこっぺ村.≫でのユニークな博物館や美術館などでの見学と体験~~なかでも嬉しかったのは、オホーツクの新鮮な海の幸~~その美味しさは言葉では言い表わせません:-))))))))))
この小さな旅の最中でも気になっていたのは池のこと~~18日の夕方に帰宅すると早速池の水の状態の確認~~旅立つ前と同様に満水だったので先ずは一安心!
だが、その日は市会議員選挙の最終日だったので、夕暮れの中を投票所へ急ぎました~~と、右足が歩道のちょっとした出っ張りに引っ掛かり、顔面から道に激突~~一瞬気を失いました!
気が付いてみれば、額と、鼻と、顎とそして右の手の平からもかなりの出血~~ハンカチで顔面を覆ってしばらくすると、少しづつ気力が戻ってきたので投票を済ますことが出来ました!
昨秋にも同じような体験があり、その時は階段で足を滑らせて頭から壁に突っ込みました~~場所が場所だけに病院でレントゲン写真を撮ってもらいましたが、幸い脳内に出血は見られないと言われました~~が、その時から物忘れがひどくなったような気がしてます!
ともあれ、「二度あることは三度あり」~~次は多分あの世行きだと思うので、大股で歩き、踵から足を下すようよう心掛けている今日この頃です!
池の方も智女の提案でミョウバンを入れて灰汁抜きをし、リトマス試験紙を使って≪中性≫を確認した後に、魚たちを池に放流~~皆元気に泳いでいます:-))))))))))
さて、そんな日々の中で、まだ3月だというのに初夏のような日々が続き、桜の花が一斉に咲き出しました:-))))))))))
日露戦争で、あのバルチック艦隊を日本海に殲滅させた東郷平八郎ゆかりの≪東郷寺≫が京王線の多磨霊園駅の近くにありますが、その山門前の枝垂桜も満開になったそうなので行ってきました:-))))))))))
ウキペディアによると、その山門は「黒澤明監督の『羅生門』に登場する門のモデルになったといわれる。映画に登場する羅生門は二階建てだが、二階部分を取の除けば屋根の形状から石段の様子まで、東郷寺の山門と瓜二つである。」とありました。
東郷寺の名物=枝垂桜 枝垂桜と山門 石段と山門 「羅生門」のモデルとなった
山門の全景
『羅生門』は、私の人生を変えた作品であり
黒澤監督の唯一の大映作品
私が修業したのが
大映東京撮影所でしたからか
親しみを感じるその山門と枝垂桜です:-))))))))))
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No.62 2018.01.13 遅ればせながら、新年のご挨拶:-))))))))))
昨年は糖尿病や心臓病などに悩まされましたが、賀状にも記させて頂きましたように、世界の東西から力強い応援歌を頂き、トータルでは当たり年~~関係者の皆様に心から感謝致します:-))))))))))
しかし「楽あれば苦あり」で、今年は元旦早々から自慢の池の水が減り始めたのです!?
ビデオ作品『聖なる劇場』(1998)の舞台ともなった≪勝丸池≫~~小さな方の池<以後=小池>はおよそ50年ばかり前に作りましたが、何か物足りなさを感じていたので30年ほど前にその<小池>に繋げる形にした大きくて深い池<以後=大池>を作りました!
ですからそこらにある瓢箪型の池に見えるかも知れませんが、構想を重ね、仕事の合間を縫って完成させたユニークな作品なのです:-))))))))))
池にとって致命的なのは<漏水>です!
そこで周りを厚いビニールシートで囲み、その上にかなり厚く粘土を貼り付けて、更に仕上げのコンクリートは二重三重に塗り固め万全の対策をしました!
とは言え、あの東北大地震では我が武州高幡不動も大きく揺れましたので、その時には心配で急いで池の様子を見に走りました!
すると、池の水は荒海のようにうねり、波は右へ左へと大きく揺れて、池の外へ飛び出していましたが、池そのものには何の被害も及ぼしていませんでした:-))))))))))
さて、映像以外では私の唯一の創造物である≪勝丸池≫~~!
何といっても「水の流れにこそ池の美の醍醐味があり」と考え、<大池>の一隅に<水中ポンプ>を据え、地上に築いた小さなダムに水を汲み上げる仕組みを作りました:-))))))))))
そのダムに汲み上げられた水の一部は滝となって直接池に落ちますが、大方の水は地下のパイプを通って6~7メートル先に構築した藪の中から<泉>となってコンコンと湧き出します:-))))))))))
更にその湧水は、石畳の脇を<セセラギ>となって流れ、そこにはカワラトンボやアマガエルなどを招きいれ、更にメジロ、シジュウカラ、ジョウビタキなどの小鳥たちの水浴の場となっていて、なかなかの風情を醸し出してくれます:-))))))))))
さて、精魂込めて作り上げたこの≪勝丸池≫~~しかし、これまでに≪人災≫や≪天災≫に何度か遇いました!
最初の≪人災≫は、近所の男の子たちによって魚が盗られましたが、こちらはまだ可愛い仕業でした!
が、二度目は小学校低学年の二人組の女ギャング~~彼女たちはかなり悪質で、被害は魚たちだけに止まらず、<水中ポンプ>をひっくり返したり、<泉>の仕組みが気になったのか、<藪&泉>が乱暴に破壊されました!
≪天災≫の方は、主に鳥獣類の出現~~先ず水辺の鳥のササゴイやゴイサギなどのから襲撃を受けましたが、最悪の侵入者はなんといっても狸~~以前には堂々と日中に現れまたこともありましたが、昨今はもっぱら夜半に出現して、防御の柵やネットを抉じ開けて侵入~~先日は<ヒレナガゴイ>がやられました!
その度に防御の網や柵が増加し、あの『聖なる劇場』時代の優雅さからは段々と遠ざかってゆきましたが、それでもこの≪勝丸池≫は「かない勝丸プロダクション」の掛け替えのない拠点のひとつ~~とりあえず、何とか水漏れのない池を蘇らせます:-))))))))))
外敵に備えた≪勝丸池≫の全景 深さ80センチの<大池> 魚たちの避難場所となった<小池>
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