〈イタリア美術紀行〉 ― 2005年7月21日〜29日―

一週間ばかり妻とイタリアに行ってきました。
竹林紀夫(IF第5期卒業生)が演出した「ポール・ゴーギャン 説教のあとの幻影」(2000年10月6日放映)に刺激され、以後その番組=〈美の巨人たち〉(12ch・毎週土曜22時〜)を欠かさず見るようにしてきましたが、そこに展開する〈画家〉と〈背景〉と〈作品〉との格闘〜〜 なかでもイタリア・ルネッサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロへの興味は抑えがたく、何としても実物を観ておきたいと思い立っての旅です。
ベネチア − フィレンツェ − シエナ − タラモネ− ローマ を巡る8日間のこの旅〜〜 既に〈映像かわら版〉でも連載しましたが、少し整理した形でここに纏めてみました。


〜〜 〈イタリア美術紀行〉−そのT
:ベネチアではキリコが! 〜〜

先ず最初に訪れたのは水の都・ベネチア〜〜 この古代ローマ帝国時代からの商業都市は、現在120以上の小さな島から成り立っており、その島々の間をはしる運河は何と170余りあるそうで、その大小さまざまな運河をゴンドラが長閑に行き交っていて〈旅情〉を演出しています。

ベネチアの大運河 左の船がヴァポレット

なかでも写真にある)この大運河は有名で、市民の日常の足であるヴァポレットが定期的に運航しており、同時にそれが観光客にとっても便利な乗り物となっています。
それにしても、運河の水面ぎりぎりに建ち並ぶ
(ホテルなどの)建築物〜〜 その異様な光景と規模の大きさに、驚かされます――!
さて、その大運河の辺(ほとり)に、世界で最も重要な近代美術館の一つといわれる〈ペギー・グッゲンハイム・コレクション〉にあり、キュビズム・アブストラクト・シュルレアリスム等の現代アートが常時展示されています。
この時の展示法は〈類型的なもの〉で、その展示意図を象徴するかのように、パブロ・ピカソの「詩人」、ジョルジュ・ブラックの「クラリネット」、マルセル・デュシャンの「汽車の中の寂しげな青年」のキュビズム三作がメイン・スペースに並べられていました。
シュルレアリスム作品もかなりあり、ダリの作品の隣には明らかにそのダリを真似たと判る絵が澄ました顔で並んでいます。
ミロの作品もエルンストの作品もありましたが、それらも類型の絵に取り囲まれることによって個性を失い、色褪せて感じられました。
そんなかで輝いていたのは、ジョルジョ・デ・キリコ(ギリシャ生れのイタリア人)「赤い搭」(1913)でした――!
後に形而上絵画と呼ばれるこの絵は、ゴテゴテした絵の具の匂いから独り離れて、静けさを保ちながら不思議な力で惹きつけます――!
そこに描かれているのは、左右の壁、広場に建つ騎馬像、蒼い空の下の小さな三軒の家、そして巨大な赤い搭〜〜 この非現実的な遠近法によって産み落とされた夢のような空間〜〜 そこには何となく落着かない〈孤独感〉のようなものも漂っています。
ともあれ、キリコのその魔術的なリアリズムが、全ての作品をここでは陵駕していたのです――!
この展示法:〈類型的なもの〉〜〜は、夫々の時代の(芸術上の)主義や運動の意義を強調する一方で、その哀れさも浮き彫りにします。
しかし、その残酷さは〈創造力の重要性〉を鼓舞しているようにも受取れ、大変に勉強になりました。
キリコのこの「赤い搭」は、その十年後に起こるシュルレアリスム運動の言わば〈先駆け〉的な作品であります。だからこそ、非現実的な世界が描かれていても、シュルレアリスムという〈イズム〉に侵されていない〈気品〉が漂っているのだと思いました――!

ジョルジョ・デ・キリコの「赤い搭」(1913)


〜〜 〈イタリア美術紀行〉−そのUフィレンツェのレオナルド 〜〜

アドリア海に浮かぶベネチアから、急行列車(ユーロスター)で内陸部へ約3時間〜〜 ルネッサンスの古都・フィレンツェに移動して、そこで2泊3日〜〜 腰を据えて美術館や教会等を巡ることにしました。

ご承知のように、ここフィレンツェは13世紀〜14世紀にかけて金融業や絹織物などで発展し、ヨーロッパで最も裕福な都市国家となります。
そうしたなかで台頭したのがメディチ家〜〜 若い芸術家や建築家たちを各地から呼び寄せ、その莫大な富を惜しげもなく投資してこの地にルネッサンス芸術を開花させたのです。

ミケランジェロ広場から見たフィレンツェの街
中央にはドゥオモ - 鐘楼とクーポラが聳えます
鐘楼から見た
クーポラ

その15世紀後半に完成した中世の都市が、ほぼそのままの姿で目の前に広がり、その美しさに興奮を覚えます――!
当時大事業であったドゥオモ
(正式には「花の聖母教会」)のクーポラ(大円蓋)はブルネッレスキが手掛け、鐘楼はジヨットの設計〜〜 共に天才的な建築家だそうです。

そして「ヴィーナスの誕生」などで知られるボッティチェッリなどの画家たち〜〜 なかでも後に〈ルネッサンスの三天才〉と称せられるレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ〜〜 みなメディチ家の庇護のもとにその才能をこの地で磨いていったのです。

今回の主人公は、トスカーナ地方(フィレンツェなども含まれているイタリア中部)のヴィンチ村で1452年に生れたレオナルド・ダ・ヴィンチです。

しかし彼は画業だけに止まらない〈万能の人〉〜〜 科学者であり、発明家であり、技術者であり、思想家としても活躍しています。
そのこともあってか画家としては極めて寡作、更にその多くが未完成のまま放棄されているのです。

その数少ない完成作の「モナ・リサ」はパリのルーヴル美術館の所蔵だし、あの「最後の晩餐」はミラノのサンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂の壁画です。
そういった訳で、このフィレンツェで観られるレオナルド作品は、未完の「マギの礼拝」
(=「東方三博士の礼拝」)と、完成作・「受胎告知」〜〜 共に(世界最高水準のコレクション)ウフィッツェ美術館に展示されています。

そこで今回の〈この1枚〉は、1472〜75年頃に描かれたといわれるこの「受胎告知」でいきましょう―― !(別の資料には1475〜80年の作品だとありました)

レオナルド・ダ・ヴィンチの 「受胎告知」

さてこの〈板・油彩〉は、天使(ガブリエル)が舞い降りてきてマリアに〈キリストの受胎〉を告げるという聖書の名場面です。そのためこの画題には様々な画家が挑戦しており、レオナルド自身にも他に作品があります。

しかし、この「受胎告知」が他のそれ等と異なる点は、マリアの〈物体的な〉その表情にあります。
(マリア)も物体と同質に描かれているこの絵から、後に(アメリカの戦後美術=)ポップ・アートの中心的な存在となるロバート・ローシェンバーグが衝撃を受けていたのです!

彼は、「ここでは、木も岩も聖母も同時にまったく同じ重要さをもっている。階級(ヒエラルキー)がないのが面白い。いまのやり方で描こうと思ったのはこの作品が動機です〜〜」と語っており、写真などのコラージュやオブジェや絵具などが同存する〈コンバイン〉絵画を誕生させたのです――!
●右は、ローシェンバーグの「作品」 1966年

時代を超えて受ける芸術上の〈影響〉〜〜 レオナルドの「受胎告知」とローシェンバーグの「作品」―― その両者の間にどれほどの〈関係〉が存在するのかということについて他者はいたって鈍感なのですが、新しいアートを模索していた彼にとってその〈発見〉は〈啓示〉のような〈痺れ〉だったのだと思います――!

この〈イタリア美術紀行〉は、ただの美術鑑賞の旅でも、先達の作品を〈模倣〉するための旅でもなく、自分と自分の作品の〈革命〉に活かし得る何かを発見しようとする〈旅〉なので、このローシェンバーグの〈視点〉こそアーティストの〈真の影響〉のひとつの形なのだと、ここで言っておきたいのです――!



 〜〜 〈イタリア美術紀行〉−そのVレオナルドとミケランジェロ 〜〜

レオナルド・ダ・ヴィンチが青年期に入り、〈男色行為の容疑〉で起訴されていた(結局は証拠不十分で無罪)そんな頃、中部イタリア(のカプレーゼ)で産声を上げたのがもうひとりの大天才・ミケランジェロでした。

ミケランジェロは13歳でフィレンツェの工房に入りますが、師との折り合いが悪く直ぐにそこを止め、メディチ家の(庭園の)彫刻学校に通っていたそうです。
そこでメディチ家当主・ロレンツォにその才能を認められ、彼は養子同然の形でメディチ家に迎えられたのです―― !

アルノ川に架かるポンテ・ヴィッキオ
(14世紀半ばに造られたフィレンツェ最古の橋)

さて、レオナルドとミケランジェロ〜〜 、
この二大天才は終生しっくりした関係ではなかったようで、その原因のひとつは〈芸術観〉の違い〜〜 「絵画こそ最も優れた芸術であって、彫刻や文学はマイナーな存在に過ぎない」と言い切るレオナルドに対し、「彫刻こそ最高のもの」と考えるミケランジェロが噛みついたのです。

更にミケランジェロが『ダヴィデ像』を完成させた時、その設置場所をめぐって問題が起きています。
彼は最も目立つ場所=〈市庁舎前広場〉を望んだのですが、設置委員のひとりであったレオナルドは屋内に置くべきだと強く主張〜〜 そのことによって二人の仲は更に気まずくなりました。

しかし、それはそれとしてレオナルドの「聖アンナと子母像」などからミケランジェロは多くの絵画的な手法を学んでいたことは確か〜〜 その偉大な先輩に対し、〈尊敬〉と〈嫉妬〉の入り混じった感情が彼のなかで渦巻いていたのだと思います。

それにしても芸術家とは厄介な存在で、歳の差はあっても〈両雄並び立たず〉〜〜 ですが、これは現在でも全く同じだと思いますょ……!(笑)

ウフィッツェ美術館とその中庭

中庭には芸術家たちの彫像が並び
こちらはレオナルド・ダ・ヴィンチ

ミケランジェロの傑作
「ダヴィデ像」
(アカデミア美術館)

このフィレンツェの空の下では、あちこちから巨大な大理石像が観光客を見下ろしています。
そんななかに、ミケランジェロの「ダヴィデ像」のコピーも混ざっていましたが〜〜 余り感心できません。特に
(小高い丘の上にある)ミケランジェロ広場に建つ青銅色の(「ダヴィデ像」の)コピーはいけません!

ところが〜〜 、
アカデミア美術館で本物の
「ダヴィデ像」を観た時には心底痺れました――!
それまでに観てきた露天の彫像たちとは全然違う何かを、そこに漂わせていたのです――!

レオナルドのいう〈屋根のある下〉がこの「ダヴィデ像」にとっては大正解―― 更にその展示法が実に計算されていて効果的なのです。
通路の両脇に彫りかけの大理石などを配し、その正面奥に毅然と立つ巨大なダヴィデ―― 辺りに
(完成した)彫像は一切置かなかったことにより、ミケランジェロの魂がダヴィデ像に乗り移しているかのように感じられて、誠に〈憎い〉演出なのです!

さて、この「ダヴィデ像」ですが、ミケランジェロが26歳の時にフィレンツェ市政長官から依頼を受けて制作されました。
ダヴィデ(= ヘブライ語で「愛された者」の意)は、イスラエルの黄金期を作った紀元前の王で、古来フィレンツェの人々の敬愛する守護神であったために、この傑作の誕生によって街に大きな興奮が巻き起こり、青年・ミケランジェロはフィレンツェのシンボル的存在となったのです―― !

しかし熱心な共和主義者であったミケランジェロは、やがてメディチ家( ロレンツォの後を継ぐ アレッサンドロ・デ・メディチ)から憎まれ、1534年にローマに去ります。

そのローマで、大ブレーク〜〜 「神のごときミケランジェロ」と賛辞を浴びますが、それは後のお楽しみとし、ここフィレンツェのフィナーレは、(偉人たちが埋葬されている)サンタ・ロレンツェ教会にある〈ミケランジェロの墓〉といたします。

1564年に、ミケランジェロはローマの自宅で亡くなりますが、その時「魂を神に、肉体を大地に」といい〜〜 更に、「せめて死んでからでもあの懐かしいフィレンツェに帰りたい〜〜」と願いながら息をひきとったといわれています―― 享年88歳でした。

生きて再びフィレンツェの土は踏めなかったミケランジェロでしたが、あのガリレオ・ガリレイの墓の隣りで、彼は安らかに眠っていました。

弟子のヴァザーリ
〈ミケランジェロの墓〉


 

〜〜 〈イタリア美術紀行〉−そのW:ローマのラファエロ 〜〜

ぼくたちは、ベネチアやフィレンツェでは全て〈自由行動〉でしたが、次は(初めての団体行動で)バスの旅〜〜 トスカーナ地方の小都市(シエナなど)を巡りながらローマへ入ります!(ローマは3泊)

そのローマでは2つの〈団体行動〉〜〜 ひとつは日本人ガイド(女性)に案内されての〈市内観光〉で、古代ローマの遺跡、ルネッサンス期や近世の建築物&彫刻などを通して、その歴史の深さを実感させられました。

もうひとつは〈ヴァチカン美術館とシスティーナ礼拝堂〉〜〜 こちらはこの旅の〈目玉〉ですのでぬかりなく〈予約〉を入れて、〈ガイド付き団体〉での美術鑑賞となります。

その〈ヴァチカン美術館〉の入口脇にある門〜〜 そこにはミケランジェロとラファエロの彫像が掲げられていて、ここでの〈主役〉を示していました。

1483年に画家の子として中部イタリアの小都市・ウルビーノで生まれたラファエロ〜〜 やがてペルージャの工房に弟子入りし、そこで教会の祭壇画などを手掛けていましたが、21歳の時にフィレンツェに移住します。

そのフィレンツェでレオナルド・ダ・ヴィンチの作品に魅せられ、その表現法を学んできたラファエロ〜〜 が、25歳の時に彼はローマに移ります。
教皇庁の建築家・ブラマンテ
(ヴァチカン宮殿などを手掛けた大建築家)が同郷であったため、その彼の推挙によってのローマ入りでした。

それは丁度ミケランジェロ(8歳年上)がシスティーナ礼拝堂の天井画に着手した頃でしたが、(頑固者のミケランジェロと違って)協調性のある彼はたちまち教皇庁の寵児〜〜 教皇・ユリウス2世から〈教皇の居間〉の壁画を申し付けられたのです!

一方、最初は助手がいたそうですが、やがてただ独りとなってフレスコ画と格闘するミケランジェロ〜〜 そしてそこに、これまでにない大胆な宗教画が描かれてゆきます!

その画を盗み観たラファエロ〜〜 特にその筋肉描写に仰天し、それを自分の絵に取り込もうと考えます――!
ラファエロには、ミケランジェロがレオナルドに燃やしたあの〈対抗意識〉などは全くなく、逆に敬愛しながらその技術を吸収し、自分のものにしていく〜〜 というしたたかさがあるのです!

「芸術家は、革命家になるか、剽窃(ひょうせつ)家になるかのどちらかだ」といったのは近世の画家:ポール・ゴーギャン〜〜 レオナルドやミケランジェロが前者なら、ラファエロは後者の〈剽窃家〉ということになりますよネ…… !(笑)

ともあれ、ラファエロはレオナルドのような哲学者でも科学者でもなく、またミケランジェロのような神がかり的な芸術家でもありません。
また先輩二人が共にホモだったのに対して、彼は健全な男性であり、ごく普通の女好きだったそうです…… 。
(笑)

さて、ヴァチカンが収集し、また制作させてきた夥しい美術作品〜〜 その〈美のトンネル〉を抜けていくと、〈署名の間〉(「ラファエロの部屋」)に出ました!

そこには画集で観たことのある「聖体の論議」や「アテネの学堂」などがあり、幅 7〜8メートルもあるそれらの大壁画は、(画集では決して味わえない)圧倒的な存在感を見せつけます。
そこで今回の一枚は、ラファエロ作・
「アテネの学堂」―― !

ユリウス2世の注文は、「人類の知と徳のいっさい、哲学的探求」だったようです。

そこでラファエロが苦しんだ末に描いたのがこの傑作〜〜 古代ギリシャの偉人たちが一堂に会するものですが、彼は散漫になるのを防ぐには壮大な建築物が必用だと考えます。
そしてその中に見事な遠近法
(レンズでいえばやや望遠〜〜 それによって手前と奥の人物の大きさを余り変えないで済む)を用いて偉人たちを配したのです!

特に重要人物(と目される)プラトンとアリストテレスの位置が見事〜〜 彼等を一番奥に置きながら、手前に向って歩かせ(といっても、映画ではないので近づいては来ませんが)、更に(学問別に幾つかの)グループを作ることによって、鑑賞者の〈意識〉を逸らせないように工夫していて、これが大成功―― !

ヴァチカン宮殿署名の間にある、ラファエロの 「アテネの学堂」

その古代ギリシャの偉人たちには、プラトン、アリストテレス、ソクラテス、ピタゴラス、ユークリッド、ヘラクレイトスなどがいます。
そしてそれらの人物の〈風貌〉は、彼が敬愛するレオナルドやミケランジェロ、そして彼の恩人・ブラマンテなどで、向かって右側のユークリッドのグループの後方には、ちゃんと自分自身の姿も描き込んでいます―― !


レオナルドの風貌の
プラトン(左)と
アリストテレス

ミケランジェロの風貌の
ヘラクレイトス(哲学者)

ブラマンテの風貌の
ユークリッド(数学者)

共同制作者の
ソドマと
ラファエロ自身(左)

このことは、
「あの最も偉大だった〈古代ギリシャ〉と比肩できるほど、われ等の時代も素晴らしいのだ!」〜〜 そんなラファエロの声が聞こえてくるようです―― !

※ 下絵ではヘラクレイトスはいなかったのですが、ミケランジェロの天井画を見て加えられたようです。また、当初はアリストテレスをミケランジェロの風貌でと考えていたようですが、彼に会って余りにもイメージが違ったので変えた〜〜ともいわれています。



〜〜 〈イタリア美術紀行〉−そのX:神の如きミケランジェロ! 〜〜

来年は、いよいよぼくも70歳〜〜、
杜甫
(とほ)の詩中の句「人生七十古来稀(まれ)なり」(現在は、70歳は稀ではなくなりましたが……)からきた「古稀(こき)」ですが、考えてみれば昔はみな数え年だったので、今がその最中なのですヨネ …… !?(笑)

ともあれ、人は歳をとるにしたがって段々と物に動じなくなってきます。ある意味でそれは〈カッコ イイ〉ことなのかも知れませんが、見方を変えればそれだけ〈鈍感〉になっているということなのです
事実、美術に対する〈感動〉も、昔ほど純粋ではなくなってきているような気がしてなりません。

そんなぼくでしたが―― 、
システィーナ礼拝堂に一歩足を踏み入れた途端にミケランジェロに呑み込まれ、その胎内でコドモのように興奮している〜〜 自分自身を見つけました!
これまで様々な名画
(の実物)を観てきましたが、こんな体験は勿論初めてです――!

ミケランジェロが32歳の時から4年余りかけて描いた「天井画」と、60歳の時から6年間を費やして描いた「最後の審判」〜〜 そのふたつがひとつの宇宙となって、ぼくを呑み込んだのです――!

システィーナ礼拝堂
ミケランジェロの
「天井画」と壁画「最後の審判」

1505年、ミケランジェロは教皇・ユリウス2世に招かれ、教皇の墓廟の制作を依頼されます。
しかしそれは、教皇の心変わりによって中断〜〜 彼が命ぜられたのは礼拝堂の
「天井画」でした!

彫刻家であった彼は、フレスコ画は初めて〜〜 何度も辞退しますが最高権力者の至上命令なので引き受けざるを得なくなります。

しかし、何故このような(フレスコ画の)制作が彫刻家のミケランジェロに回ってきたのか〜〜 不思議だと思いませんか?

その答えは、ライバルの嫉妬心から出た〈推挙〉〜〜 、
教皇に寵愛される建築家・ブラマンテ
(= ラファエロの後見人)が、傲慢な態度のミケランジェロに不慣れなフレスコ画を描かせ、その失敗によって彼の名声を失墜させてやろうと企んだのだというのです!

それにしても未経験者にとって、このフレスコ画は大変なようです!
壁に漆喰
(しっくい)を塗り、それが乾き切らない内に素早く水彩絵具で描き切るという技法なので、描き直しも失敗も許されないのです―― !

さて、その教皇の注文はといえば〈キリストの十二使徒〉〜〜 事実ミケランジェロも予備スケッチとしてその内の1枚を描いています。
しかしその広いスペースに十二使徒では淋しすぎると、教皇の構想に猛反対〜〜 既成の宗教画から脱し、彼の内面的な宗教性と結びつけた独自の哲学を展開すべく、その構想を推し進めてゆきます。

1508年の5月に取り掛かったその「天井画」〜〜 しかしフィレンツェから連れてきた助手たちとは気が合わず、遂には下仕事をする協力者さえも拒んでただ独り〜〜 来る日も来る日も身を弓なりに反らせて天井と向き合い、その超人的な精神力と体力とでこの苦行を続行します―― !
勿論、誰にも邪魔されないように、しっかりと
(礼拝堂に)鍵をかけての作業でした!

その構成は、〈預言者と巫女〉と、〈キリストの祖先たち〉と、〈旧約聖書にあるイスラエルの救済〉〜〜 、
そして最も重要な中央部には、9つの場面からなる〈創世記の物語〉を雄々しく展開させます―― !

「天井画」の「創世記」の部分

「天体の創造(太陽と月の創造)
厳しい顔の神が現れ、
昼と夜を創った後、遠ざかって行きます。
その優雅さと遊び心〜〜 それにしてもこの神お尻は絶品です!!

'12年10月〜〜 、
遂に300人余りを登場させた大作・「天井画」が完成します―― !

「美の本質は神に似せて創造された人間の肉体である――」と言い切るミケランジェロは、その彫刻的な肉体像の特徴を強調させる技法で圧倒〜〜 かつてない宗教画をカトリックの総本山・ヴァチカンの礼拝堂に誕生させたのです!

ブラマンテの〈陰謀〉のお陰で実現したこの大傑作〜〜 見上げる人々の口からでる言葉は、「神の如きミケランジェロ」です―― !

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その「天井画」の完成から23年〜〜 60歳になったミケランジェロが再びシスティーナ礼拝堂に舞い戻ってきました。
しかしその20余年の時間は長く、ヨーロッパでも、イタリアでも、ローマでも、様々な出来事が起こっていたのです!

ドイツの宗教改革者:ルターの「五十九箇条の意見書」(1517)に端を発する宗教改革の嵐〜〜 。
その吹き荒れる嵐の中で、あの二天才の相次ぐ死〜〜 69歳でレオナルド・ダ・ヴィンチ
(’19)が、そして翌年には37歳の若さでラファエロが逝きました。
更にそのローマでは、チャ−ルス5世率いる軍隊によって史上最悪といわれる略奪が行われていたのです―― !

そんな中、教皇・パウロ3世に呼び出されたミケランジェロ〜〜 彼は縦14m50、横13mの巨大な壁を前にして「最後の審判」の構想を練り上げます。

最上部には軽ろやかに舞う天使たちを、次の層には審判を下すキリストと十二使徒などを、そしてその下の層には天国に引き揚げられる者たちと地獄に墜ちてゆく者たちを配し、最下部には地獄〜〜 そこで苦しむ者たちの姿を描きます。

そもそもこの「最後の審判」とは〜〜 、
それは新約聖書に記された人類終末のドラマ〜〜 ミケランジェロはカトリックの危機感からこの絵を描いたといわれ、死を前にした全人類に対する彼の警告だともいわれているのです―― !

「最後の審判」の中央部分
審判を下すキリスト、右の鍵を持つペテロも左のヨハネもみな筋肉隆々マッチョです!

ミケランジェロのその彫刻的肉体表現は更に進化していて大胆〜〜 キリストもペテロもパオロもヨハネも筋肉隆々の肉体美〜〜 これまで観てきた宗教画の、あの痩せこけた人たちのお姿とは全く違う世界でした――!

それにしても凄い〜〜 彼はキリストを初めとする全員を、スッポンポンの素っ裸の姿で描き上げていたのです―― !
(ミケランジェロの最期の年’64年に、トレント公会議によって猥褻とみなされる部分を「おおい隠す」ことが決定、彼の弟子たちによって局部が隠され今の絵になりましたが....)

祭壇画・「最後の審判」の登場人物は何と400人余りとか〜〜 しかしその彼等の〈裸体〉が原因で、あの「天井画」の時とは様子が違いました!
特に
(教皇に次ぐ権力者の)儀典長・チョゼーナからは「猥褻だ」と厳しい非難〜〜 そこでミケランジェロは、「芸術を知らぬ野蛮人」として彼を地獄に墜としたのです――!

哀れ、チョゼーナは地獄の番人・ミノスに〜〜 !
そしてその顔には驢馬の耳を、体には蛇を巻きつけました。有難いこと
(?)にその蛇は、チョゼーナの「猥褻」なるペニスを呑み込み、隠してあげています〜〜 何という恐ろしきブラック・ユーモア―― !(笑)

また聖バルトロメオの〈生きながら剥がれた皮〉〜〜 何とそこにあるのはミケランジェロ自身の自画像でした―― !
その歪んだ顔に、彼が受けた不当な待遇への恨みとみる学者もいれば、逆に己が犯した罪に対する慄きとみる研究者もいます。

審判を下すレスラーの如きキリスト
左は聖母マリア

生きながら剥がされた皮
そこにミケランジェロ
の自画像が〜〜

地獄の番人ミノスには
教皇庁儀典長の顔〜〜
蛇がその局部を呑んで隠します

祭壇画・「最後の審判」は、
1541年の完成ですから464年が経ちます。
が、その時間を超えたこの新鮮さ〜〜、
ルネッサンス芸術の最高峰として、永遠に輝き続けていきます―― !

 

〜〜 〈イタリア美術紀行〉−そのY:邦画の天才たちを重ねる!〜〜

この連載〈イタリア美術紀行〉もこれが最終章〜〜 最後は実験作家らしく大胆に締め括ろうと思っております!
それは、あのルネッサンス期の三天才
(= レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ)に、最も日本映画が輝いた〈戦後昭和期 =1945.8.15〜1989.1.7〉に活躍した天才たちをダブらせてみる〜〜 という、前代未聞の実験なのです!(笑)

が、それには書く方にも読む方にもちょっとした〈覚悟〉は必要〜〜 いきなり〈本題〉という訳にはいきません。
先ずは、このツアーで遭遇した幾つかの体験談から入らせて頂きますので、そこのところ… 宜しく !

さて、イタリア産業の第1位は〈観光〉だそうです。
それには頷けますが、頷けないのは
(その大切な顧客である筈の)観光客の懐を狙う〈スリたち〉のお出迎え〜〜 その数の多さには全く吃驚させられます!

ぼくの〈出立ち〉はといえば、半袖シャツにカーゴパンツ、そして小さなリュックにポシェット〜〜 あるいはその姿や年齢に〈隙〉を感じたのでしょうか、ぼくは4回に渡って襲われたのです―― !(笑)
(パスポートや財布など大切なものは複雑な構造を持つカーゴパンツの奥のポケットに、サングラスや筆記用具など盗られてもそれほどショックでないものはポシェットに入れました)

最初に遇ったのはヴェネチアの大運河を運航するヴァポレットの中〜〜 、この乗合船が観光スポット(= リアルト橋)の桟橋に着くと、ツーリストに混じって市民風の男たちがどっと乗船してきたのです。
途端に混雑する船内〜〜 気がつくとぼくを取り囲むように数人の若い男がいて、奴らは船の揺れを利用するかたちで体を押し付けてきます―― !

これが話に聞く〈集団スリ〉か 〜〜 !?
奴らが最初に狙ってきたのは左横腹の位置にあるポシェット〜〜 体を反転して振り切ろうとしたのですが離れず、やがてパスポートが入ったポケットの上にその手を伸ばしたので、合気道の手刀で勢いよく振り払ってやりました―― !

フィレンツェでは〈スリ〉には遇わず気持ちの良い観光となりましたが、ローマでは何と、3回も襲われます―― !

システィーナ礼拝堂でミケランジェロに陶酔〜〜 興奮覚めやらぬ心地で歩いていると、いきなり外人娘特有のイントネーションで、「サヨナラ!」〜〜 その声を発するや否や、若いふたりの金髪娘が左右からぼくの体に絡み付いてきたのです―― !

3度目と4度目はローマの地下鉄:スパーニャ駅〜〜 近くにはスペイン広場や高級ブランド店街などがあるので〈スリ〉たちにとって最高の仕事場なのかも知れません。
そういえば駅前でも女の闘い―― 婦人警官と若いスリ女とが
(観光客の盗られた)ハンドバックを引っ張り合っている光景を目撃しています。

駅の構内での〈スリ〉は、2〜3人でグループを組む主婦たち(?)〜〜 否、主婦かどうかは定かではありませんが、(2回とも)その片方は赤ちゃんをだっこしていたのです!
この乳飲み子を抱えたお母さんが〈スリ〉だとは〜〜 こちらが電車に足を踏み入れた瞬間、ホームから手を伸ばして時計やポシェットを奪いにきたのですョ、全くもう―― !

それなりに知恵を使って防御したので、4度の〈スリ襲来〉も幸い損害には繋がりませんでしたが、本当にうざったいんですよ―― !
ガイドの話によると、「スリに遇うのは日本人とアメリカ人だけ〜〜 韓国や中国からのツーリストも増えたが、彼等にはスリは近づかない」そうです。その訳は、「
(スリの方が)逆襲されるのを恐れているから〜〜」だそうなので、日本人も心身を鍛えてこれからは〈逆襲〉にでましょうか〜〜 !?(笑)

さて、〈本題〉に入ります―― !
今度の旅で
(強烈に)出合った作品の多くが、教会の壁画などの大作だったことと、そこに存在する依頼主(スポンサー)ということなどから、ぼくは〈映画製作〉に通じるものを強く感じました。
つまり、画家と依頼主との関係と、監督と製作会社との関係〜〜 それが最も端的に重なって見えたのがミケランジェロと巨匠・黒澤 明の場合です。

ミケランジェロの「天井画」の依頼者は最高権力者の教皇でしたが、その完成の期限などでしばしば激突しています。
また「最後の審判」では、その裸体の乱舞に
(聖職者たちを中心に)非難の声が巻き起こりましたが、彼は屈せず、自分が信じる「裸体が最適」を通しました!(後に、局部には布が掛けられましたが)

一方、黒澤監督の『七人の侍』〜〜 1954年のこの東宝作品では、先ず黒澤の(神経衰弱による)入院、そしてロケに入ってからの天候や馬不足の問題などが次々と起こって大幅に遅れ、そしてそれに伴う予算のオーバー 〜〜 遂に会社首脳は一時製作を中断させました!

ミケランジェロと黒澤の共通点は、その妥協を許さない〈頑固さ〉〜〜 それが彫刻家・ミケランジェロをしてあの不朽の名画を描かせました。そして黒澤の場合は、(敗戦から丁度10年目に)日本人に誇りと自信を蘇らせ、更にその(日本の)存在を世界に堂々と知らしめる、あの大傑作を創り上げさせたのです―― !

さて次はラファエロ〜〜 すぐに浮かんできたその相方(あいかた)は寺山〜〜 歌人、詩人、小説家、劇作家、舞台演出家、実験映像作家、映画監督、そして競馬評論家としても名を馳せていたあの寺山修司です。

寺山と親しかった者に聞くと、〈〜 相手を立て、自分を立てる人 〜〉だったそうで、彼を慕って沢山の人たちが集まっていたのも頷けます。
またラファエロも〈協調性〉があり、製作中は助手たちに豪華な部屋を与えて〈やる気〉を起こさせるなど、人使いの上手い男だったようです。

山田風太郎の「人間臨終図鑑」(徳間書店)には、〈〜〜 寺山は「天才」にちがいなかったが、活動があまり多方面に散乱していたために、死後すぐに、それらの影響力はたちまち消えるであろう、せめて残るのは、彼が十八歳のときに作った、「マッチ擦るつかのま 海に霧ふかし 身捨てるほどの祖国はありや」以下一連の『チエホフ祭』と題する短歌だけだろうと評された(ただしこれも、他人の俳句を短歌にアレンジした剽窃(ひょうせつ)歌集であるが)。果して如何(いかん)。〉とあります。

その風太郎の予想は見事に外れ、死後十余年に渡って〈寺山ブーム〉は続きました!
それはさておき、文中にある〈他人の俳句を短歌にアレンジした剽窃歌集であるが〉〜〜 の〈剽窃〉がラファエロとのもうひとつの共通点〜〜 しかもその〈剽窃〉を共に悪びれていないところも一緒なのが面白いですよね…… 。
(笑)

さて、今度の旅でミケランジェロとラファエロの作品は沢山観ることが出来ましたが、もうひとりの大天才:レオナルド・ダ・ヴィンチの作品は悲しいかな、フィレンツェで「受胎告知」と「マギの礼拝」(共にウフィッツェ美術館所蔵)、そしてヴァチカンで「聖ヒエロニスム」(ヴァチカン宮絵画館所蔵)が観られただけです。

しかし、それはそれとして、今はそのレオナルドにダブるご仁を見つけなければなりません〜〜 !
そこで出てきたのが大島 渚監督〜〜 2人の共通項は共にアーティストでありながらアーティストを超えた存在〜〜 というところです。

ご存知のように、レオナルドは様々(医学・自然・航空・大砲etc)な分野の科学者でもありましたが、我らが大島も(TVや活字を通しての)政治・社会問題などの極めて重要なジャーナリストのひとりでした。
そして、’60年代に彼が発した「全く新しい内容のものを、全く新しい方法論で撮らなければ映画として認めない!自己模倣も許さない―― !」というその言葉と、その実行こそ、あのレオナルドの〈発明的思考〉と重なる点であり、共にアートの〈大革命家〉だといえます―― !
(前々回の〈ローマのラファエロ〉の中でも触れましたが、ポール・ゴーギャンは「芸術家は、革命家になるか、剽窃家になるかのどちらかだ」といっております)

ラファエロの「アテネの学堂」を観た時に知った、あの〈古代ギリシャ〉と〈イタリア・ルネッサンス〉との重なり〜〜 〈戦後昭和期〉の監督たちも多士済々で、決してそれ等に劣らない素晴らしい時代を作ったと〜〜 ぼくは信じているのです―― !

まだまだ書くべきことは沢山あります。
1968年の「映画評論」
(1〜2月号)に連載された足立正生・唐 十郎・種村季弘よる座談会「メケ文化とマニエリスム」〜〜 そのマニエリスムが、実はミケランジェロの「天井画」の〈神の尻〉に繋がっていたのだということや、その後に起こるバロック期の天才・ベルルーニ(彫刻家、建築家)についても触れておきたかったのですが、この〈イタリア美術紀行〉を連載してから訪問者は激減しましたので、これで〈完結〉と致します〜〜! (笑)
             お付き合いほど、誠に有難う御座いました!

最後の〈おまけ〉〜〜 、
帰国を翌日に控えたローマの午後〜〜 大きな本屋のショーウインドーを眺めていた妻が、突然「吉本バナナの本〜〜!」といいました。
覗いて見ると、その表紙には確かに L' abito di piume Yoshimoto Banana とあって、何故かとても嬉しい気分になりました――



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