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152 2006.12.28  我らが夏の日の旅=トルコ 〜 そのX イスタンブール = その歴史の輝き

今度の旅で改めて感じたことは、思っていた以上にトルコの歴史は古く、且つ重要であったということ〜〜 特に紀元前2,000年から西暦1,500にかけてのトルコは世界の文化の中心で、その後にその舞台がヨーロッパへ移ったということなのです。
その古代史の核となったのがヒッタイト人〜〜 BC2,000頃やってきた集団(インド・ヨーロッパ語族の集団)が先住民の中へ入り込み、その文化を取り込みながら、やがて強大な国=〈ヒッタイト帝国〉を築き上げたということです。
その遺跡が残るハットゥシャシュや、その(ヒッタイト人の)聖地・ヤズルカヤを見学した後、トルコ第二の大都市であるアンカラへ〜〜 そこはトルコ共和国の誕生とともに生まれた近代の都です。
〜 そのV パムッカレ = 綿の城 〜 >でも触れた、アタテュルク(トルコの父という意味)=ムスタファ・ケマル(初代)大統領が、オスマン時代の旧弊を断ち切るためにあえて(栄光に彩られた)イスタンブールを排して、小アジア(= アナトリア)中央部の一地方都市に過ぎなかったここに遷都したのでした。
今度はのんびりと列車で〜〜 始発のアンカラ 駅 特急寝台列車の個室でイスタンブールへ
その新首都・アンカラから旧首都・イスタンブールへの旅は、〈特急寝台列車〉です。
これまでの移動が全てバスだったので、この個室寝台は快適〜〜 ぼくの好きなTV番組=「世界の車窓から」の映像を思い浮かべながら旅の情緒を楽しみました。
そして、およそ10時間〜〜 、
列車は、朝の光に満ち溢れたプラット・ホームに滑り込みますが、そこが何とウシュクダラ(ユスキュダル)だったのです!
前にも触れたかと思いますが、ここイスタンブール市はボスフォラス海峡を挟んで西側がヨーロッパ、東側がアジアという類稀なる都市で、ウシュクダラはその〈アジア・サイド〉に位置しています。
それにしても懐かしい響きが包むこの〈ウシュクダラ〉〜〜 若い皆さんには分からないかも知れませんが、我々にとってこの地名には特別な思いがあるのです。
戦後暫く経った頃だと思いますが、(誰が歌っていたかも忘れましたが)ラジオから「ウシュクダラ はるばる たずねてみたら〜〜 世にも不思議な・・・・・」といったエキゾチックな歌謡曲がよく流れていて、ぼくたちは遥かなるイスラム世界へ夢を馳せていたのです―― !(笑)
さて、今度の旅の契機となったのは、<bP46号>でも触れたように一冊の文庫本=塩野七生著・「コンスタンティノーブルの陥落」でした。
そのコンスタンティノーブルとは、
西暦330年にローマ皇帝・コンスタンティヌスがそれまでビザンチュムと呼ばれギリシャの植民都市であった(現在の)イスタンブールに遷都し、皇帝・コンスタンティヌスの都=コンスタンティノーブルとなったのです。
ともあれここは、そのビザンチン帝国(=東ローマ帝)の首都であり、海洋貿易の条件を満たした港湾都市として大きく発展〜〜 全盛期の六世紀から十世紀にかけては(郊外を含めると)人口は百万で、地中海沿岸における最大の都市だったのです。
イスタンブール市の略図 再度登場!塩野七生著「コンスタンティノーブルの陥落」
そのビザンチン帝国の首都として千百年余りの長きに渡ったコンスタンティノープルでしたが、1,453年5月29日〜〜 オスマン・トルコによって陥されたのです!
塩野氏のこの「コンスタンティノーブルの陥落」は、その戦いに何らかの形で関わった人たちが残した文献を基にして構成されている労作で、読む人の心を強く捉えます!
それでは、〈ビザンチン帝国〉と〈オスマン・トルコ〉について簡単に触れながら、ご一緒にこの〈歴史の街〉を巡ろうと思います。
13世紀末にオスマンを族長としたトルコ族の一派が小アジアの内陸部に結集し始めます。やがてそれが破竹の勢いで勢力を延ばし、あっという間に小アジア全域を席捲〜〜 1,369年にはヨーロッパ・サイドへ進出し、コンスタンティノープルの北西にあたるアドリーアーノポリというところにその首都を移し、スルタン(= イスラム王朝の君主)を名乗ります!
周りをオスマン・トルコに囲まれたビザンチン帝国〜〜 こうなるとスルタンの宮廷に年貢金を納めなければならなくなったり、またスルタンが遠征の際には皇帝ないしは皇族のひとりが兵をひいて従軍という義務まで課せられ、その属国化は進むいっぽうでした。
〜〜が、そんな百戦百勝のトルコ軍を待伏せしていたものがありました!
それは1,402年に起きたモンゴル軍とのアンカラでの戦い〜〜 彼らは非情軍団・モンゴルに完膚無きまでにたたきのめされたのです!
そのことは、ビザンチン帝国だけではなく、コンスタンティノープルを貿易の大切な基地としていた通商国家=ヴェネツィア共和国やジェノヴァ共和国などにとっても、大いなる救いとなったという訳です。
それからおよそ半世紀が過ぎた1,451年2月〜〜 父の死によって19歳に2ヶ月足らない青年がスルタンに即位します。少年時代にアレクサンドロス大王の生涯などに異常な関心をもって育った、マホメッド(=メフメット)二世です。
彼は父の代に結ばれていた不可侵条約を破ってコンスタンティノーブルへの攻撃を企てます―― !
迎え撃つビザンチン帝国の帝王は、偶然にも創立者と同じ名のコンスタンティヌス十一世〜〜 49歳の洗練された紳士だったと記されています。
もう一度〈イスタンブールの略図〉をご覧あれ、
ビザンチン帝国の最後の領域は〈旧市街地〉とあるところ〜〜 が、幸いなことにここは三方を海に囲まれた天然の要塞で、難攻不落ともいわれていました。
その海のひとつが〈マルマラ海〉〜〜 その南にはダーダネル海峡があって〈エーゲ海〉へと続き、更にその南には〈地中海〉が大きく広がっています。
一方、ボスフォラス海峡の北には何があるかというと〜〜 〈黒海〉で、その沿岸には豊かな穀倉地帯があります。
そこで、マホメッド二世がとった最初の作戦は、その〈黒海〉との唯一の貿易航路であるボスフォラス海峡に、〈要塞〉を構築することでした。
既に祖父の代に築かれていたアジア側の要塞の向かいに、彼は巨大な要塞・〈ルメーリ・ヒサーリ〉を築きました。そして両方の要塞には大砲〜〜 狙いは、行き交う船舶に通行料という名目で莫大な金額を要求することであり、もし停船命令に従わない場合は両岸の大砲が火を吹くという仕掛けです。
ボスフォラス海峡―― その一番狭いところに築かれた要塞 潮風に翩翻と翻るトルコ国旗
ヨーロッパ・サイドの要塞 〈ルメーリ・ヒサーリ〉 アジア・サイドの要塞 〈アナドール・ヒサーリ〉
そして、いよいよ決戦の時が来ました―― この戦いはまたキリスト教とイスラム教の〈宗教戦争〉でもあるのです!
しかしそのキリスト教も、第4回十字軍は(1,204年に)ここコンスタンティノーブルを占領し、およそ半世紀の間でしたが〈ラテン帝国〉を建国したこともあります。
同じキリスト教でもビザンチン帝国のそれは、〈宗教と政治〉との統一を守る〈ギリシャ正教会〉であり、カソリックの国々では、既に教会と国家を分離したことによって〈繁栄〉を得ていたので、その両者の間にはかなり隔たりが出来ていたのです。
そんなこともあって、皇帝・コンスタンティヌス十一世が(ヨーロッパの国々に)援軍を要請しても、結局はどの国も大軍を送ってはきません。しかし消極的な援軍であってもヴェネツィアを初めとす船舶は海戦に長けており、一時はトルコ海軍を蹴散らして大打撃を与えます!
また西側の内陸部に築かれた外城壁でも防衛軍は奮闘〜〜「アラーの他に神はなし― !」と唱えながら外壁を攀じ登ってくるトルコ兵を蹴落として頑張ります!
が、守るビザンチン帝国軍はたかが7千、スルタン・マホメッド二世は16万の大軍を投入して総攻撃をかけます!
凄まじい戦となりますが、多勢に無勢〜〜 やがて壊された城門からトルコ兵が雪崩を打って進入してきます!
もうこれまでと悟ったのだろう、ラストエンペラー (= コンスタンティヌス十一世)は剣を抜き放つと、その姿を寄せ来る敵兵のなかに消してゆきました・・・・・!
ギリシャ正教の総本山であった 〈アヤソフィア聖堂〉
西暦360年に最初の聖堂が建てられたが焼失
現在の聖堂は537年にユスティアヌス帝によって建てられたもので
ビザンチン美術の最高傑作といわれれている建造物
高さが50メートルもある大聖堂――!
オスマンの征服によってモスクに変わり
宗教画のモザイクは漆喰で固められたが、現在は
基本的にはビザンチン時代のままで、天井には〈聖母子像〉
とても古いものとは思えない、キリストのモザイク 聖母子と二人の皇帝のモザイク
右はコンスタンティノーブルの町を捧げるコンスタンティヌス大帝
左は聖堂を捧げるユスティアヌス大帝 
東方キリスト教文明とイスラム文明の〈遭遇と激戦〉〜〜 、
その勝者は弱冠21歳のスルタン・マホメッド二世―― 彼は(合理的な考えの持ち主で) 時をおかず、全ての教会をモスクに改造させ、トプカピ宮殿の建造を命じます。
勿論軍事にも俊敏な彼は、セルビア攻撃に成功すると、黒海南岸を制圧し、続いてエーゲ海から地中海へと進出〜〜 ローマ法王に眠れない夜を与えましたが、1,481年5月3日―― マホメッド二世は遠征先で49歳の生涯を閉じました。
が、トルコはその後も勢力は更に拡大〜〜 1,517年にはエジプトを征服し、地中海沿岸に三大陸(アジア、ヨーロッパ、アフリカ)にまたがる大帝国を構築し、ウイーンまで進撃して西ヨーロッパを震撼とさせました。
その〈威勢〉を示すかのようにして建つ、〈スルタン・アフメット一世ジャミィ〉〜〜 14代スルタン・アフメット一世が7年の歳月をかけて1,616年に完成させたモスク、観光客からはブルー・モスクの名で親しまれています。
スルタン・アフメット一世ジャミィ (ブルー・モスク) ドームの重なりが実に見事!
200を超える窓にはステンド・グラスが
刻々と変化する光が、幻想的であり、神秘的でもある
ブルー・モスクという通称は
壁に嵌め込まれた青緑を基調とするタイル装飾からきている
さて、現在のイスタンブールは一千万人を超える大都市ですが、治安が行き届いた美しい街です。
旧市街にあるグランド・バザールを覗くと、金銀、宝石などの装飾品、絨毯、陶器、布地、革製品などトルコ中のあらゆる産物を扱う店が犇めき合っていました。
現在は土産物の巨大な集合体ですが、その昔は東西交流によって生まれた富がイスタンブールの繁栄を支え、宝石などと同じように奴隷もここで取引されていたといいますから凄いです!
ガラタ橋を渡って〈新市街〉へ入り、急な坂道を暫くゆくと〈イスティクラル通り〉〜〜日本でいえば差し詰め銀座通りといったところでしょうか、ある種の気品が漂う繁華街です。
その表通りに一軒だけ大きな書店があって、そのショー・ウインドーにとても嬉しい本を見つけました―― !
それは黒澤 明監督の本でしたが、何故か右隣の「GEYSA NIN」という本も気になりますね・・・・・ !(笑)
4千4百件軒が犇く、グランド・バザールの一角 眩い装飾品がどこまでも続くショー・ウインドー 
イスティクラル通りにある書店の前で 黒澤 明はやはり世界のクロサワ!
「七人の侍」は国境を越え、時間を超えて生きている!
5回にわたる連載に、お付き合い頂きまして誠に有難う御座いました!

それでは皆さん
良いお年をお迎え下さい―― !

151 2006.11.30  我らが夏の日の旅=トルコ 〜 そのW カッパドキア = 大自然の造形美

パムッカレを後に、我らのバスは東へ東へと驀進し、やがてトルコの古都・コンヤへ〜〜 ここはセルジュク・トルコの都があったところでもあり、古来交通の要衝の地〜〜勿論、ヨーロッパとアジアを結んだあのシルクロードも通っていたのです!
そのコンヤで昼食を済ませ、歴史ある街道の上を更に東へ〜〜 と、おっと、と、と・・・・・ この(コンヤ)付近のシルクロードで、1ヶ月後には日本人観光客を載せたバスが横転〜〜 死傷者が出てニュースにもなりました!同じ会社のツアーだったんですよ !!!
まるで要塞のような隊商宿跡(キャラバンサライ) トルコの富士山とも呼ばれている エルジェス山
さて、シルクロードといえば赤い砂漠を行くキャラバンが脳裏に浮かんできます。
が、当時はそのキャラバンを襲う盗賊が出没していたから大変〜〜 そのことを今の世に語りかけてくるのがキャラバンサライ = 隊商宿です。
高く築かれた頑丈な石塀〜〜 要塞を髣髴とさせる建造物で、構内は広く、沢山の駱駝を安全に休息させるための大きな建物もありました。
かつてはシルクロードの沿道のあちこちで見られたという隊商宿〜〜 ガイド・ブックによると、今ではちゃんとした形で残っているものは少ないそうです。
車窓からの近景はヒマワリ畑から荒野へと移り、やがてその彼方に雄々しい山容の大きな山が現れました。
ガイドの話だと、トルコでも(日本の)富士山は広く知られていて、この山・エルジェスは「トルコの富士山」と呼ばれ親しまれているのだそうです。
標高は、富士よりも高いエルジェス〜〜 実は世界遺産・カッパドキアの奇観を作り上げた、火山のひとつだったのです!
荒涼たる大地に何処までも続く奇岩・怪岩〜〜 大自然が長い歳月をかけて織り成したこのダイナミックなパノラマを、先ずは篤とご覧あれ――!
何処までも続く不可思議な大地 童話の世界へと誘う 〈妖精の煙突〉
風化が進んだ 〈茸岩〉の笠〜〜 やがては消滅の運命が こちらは有名な 〈駱駝岩〉〜〜 それにしてもお見事
世にも不思議なこの光景〜〜 その始まりは数百万年前まで遡ります。
先に紹介したエルジェス山と、ハサンと呼ばれている山とが大噴火〜〜 その膨大な量の火山灰が広い範囲の大地を覆い、やがてそれは冷えて固まり凝灰岩となりました。
そしてまた長い長い歳月の間にその凝灰岩は風雨に晒されて浸食〜〜 大自然が作った壮大なる造形の美となって、我々の前に展示されたのです〜〜!
やがて、この奇観の中で人々は営みを始めます。
民族や国家の変遷もあり、それに伴う文化や宗教などの歴史をそこに刻み付けながら、長い長い時間を経て、それらは丸ごと現代の産業=〈観光資源〉へと、見事に繋がってきました!
カッパドキアの摩訶不思議さは、地上だけではおさまらない
現在、何と36箇所もの〈地下都市〉が見つかっているのだ!
地下8階まである 〈カイマクル地下都市〉
まだこの〈地下都市〉の全容は掴かめていないようだが
〜〜 ともあれ凄い!
この岩山の付近には、幾つもの修道院や教会があった! ドームの天井に描かれていたのは、キリストの肖像
     夏は涼しく冬は暖かい洞窟〜〜 現在も様々な形で活かされていました!
先人たちの知恵が引き継がれた、快適な住居 この家の娘さんが作った〈お嫁入り道具〉の品々
一方こちらは、岩山を刳り貫いて造られた洞窟ホテル 鑿跡も鮮やかな内装〜〜 カッパドキアならではの 粋なルーム!
またここは、近くを流れるクズルウルマク川(赤い川という意味)の赤土を使った陶器でも知られています。
その歴史を遡ると紀元前〜〜 良い土に恵まれ、今もその伝統を受け継ぐ工房があちこちにあるということなので、予定外ではありましたが、バスをその中のひとつに着けてもらいました。
そこは、アナトリアの伝統土器と、オスマントルコの流れを受け継ぐという 〈チェチ陶器工房〉です。
お店と工房を兼ねたチェチ陶器工房 作品が生み出される工程を見られるので、見学者にも人気
その色彩と細かい作業が惹きつける大皿 な、な、何〜と、、、、、我が智女が、轆轤に挑戦 !!!
初めてだというのに 〜〜 お見事でした  !!!)))))

● 次回は、イスタンブール〜〜 ヨーロッパとアジアとに跨った〈世界唯一の都市〉があなたを待ってます!


150 2006.10.18  我らが夏の日の旅=トルコ 〜 そのV パムッカレ = 綿の城

申し遅れましたが、
このツアーがどういうものかというと、一台の貸切バスに日本人観光客が十数名、それに添乗員と現地観光ガイド各一名を乗せて二人のドライバーが交替しながら前進、そしてまた前進〜〜といったスタイルの旅なのです。
ほれほれ、今年パリーグを沸かせ、日本ハムを優勝に導いたあの伊達男・新庄剛志選手〜〜 その彼のCMでお馴染みのH.I.Sによるツアーで、付けられた名前が〈トルコ大満喫 10日間〉なのです。
さて、トルコ、トルコと申しましても些か広うござんす〜〜 国の西側はヨーロッパ、東側はアジアという位置にあって総面積は日本のざっと2倍〜〜 そのおよそ半分のエリアを、10日間でぐるりと一周しますので、単純計算ではざっと日本一周のバス旅行〜〜ぞっとするほどの凄さでしょう!(笑)
エーゲ海に別れを告げる勝丸 バスは東へ、沿道には何処までも続くヒマワリの花
といったような訳でグズグズしてはおられません!
“葡萄酒色に輝く”と形容されるエーゲ海に別れを惜しみながら、バスは東へ、内陸部へと進み、次の目的地はパムッカレです。
それにしてもトルコには古代都市遺跡が沢山ありますね〜〜 ここバムッカレにもヒエラポリスの遺跡があり、その昔を今に語りかけてきます。
ペルガモンの王(エウメネス2世)が紀元前190年の戦い(ローマvsセレウスコス朝)でローマ側につき、その戦勝功労ということでこの地を得て大きく発展させたということです。
ちなみにペルガモンは、前回取り上げたエフェソスと共に〈エーゲ海の二つの薔薇〉と称された古代都市のひとつです。
さてそのヒエラポリス〜〜 それは〈聖なる都市〉を意味し、有史以前からここは〈聖地〉でありました。
大地から湧き出す熱泉と(有毒)ガスが先住民たちの信仰の対象となり、その東斜面にはえもいわれぬ神秘の世界が広がっていたのです。
およそ3キロメートルにも渡る大石灰棚〜〜 世界遺産 ・パムッカレです!
パムッカレとは〈綿の城〉〜〜 まさに白い綿を敷き詰めたような光景〜〜 !
地質学的には、この地域の温泉水には大量に炭酸カルシウムが含まれていて、それが水中の酸素と結合して沈殿〜〜 長い長い歳月を経るうちに凝縮して石灰棚を形成していったのだそうです。
石灰棚に遊ぶ観光客 日本の棚田を思わせる石灰棚
またこの辺りは古くから温泉地としても知られ、その効能は動脈硬化、神経症、リュウマチ、胃腸障害など〜〜 ローマ帝王も湯治に訪れているのです!
ぼくたちが宿泊したホテルにもプールとセットという形で大きな露天風呂がありました。
数十年ぶりにプールに入り、50メートルを一気に泳ぎましたが、やはり歳ですね、かなりばてました・・・・・!(笑)
露天風呂も水着々用ですが、温泉好きなぼくにとってはとても有難く、旅の疲れが癒されました―― !
宿泊したホテルの プール 異様な形の露天風呂
偉大なるアタチュルクとのツーショット

ホテルのロビーにはトルコ共和国の初代大統領・ムスタファ・ケマルの大きな肖像写真がありました。
いや彼の肖像画や銅像などはトルコのいたるところにあって決して珍しくはありません。しかしそれもその筈〜〜 もし彼がいなかったらトルコという国は消滅したのではともいわれ〜〜アタチュルク = トルコ(共和国)の父として国民に敬愛されているのです。
第一次世界大戦でトルコ帝国はドイツ、オーストリア側に組して敗北〜〜 戦後は連合国側のイギリス、フランス、イタリアなどによって占領されました。
更に1919年には隣国のギリシャが〈コンスタンティノーブルの回復〉を目指して侵入〜〜 西アナトリアの大部分は占拠されましたが、この時、ムスタファ・ケマル将軍が人民軍を率いて反撃〜〜遂に勝利を勝ち取りました!
1922年、ムスタファ・ケマルはそれまでのスルタン(王朝)制度を廃止して、翌年の10月にはトルコ共和国が成立〜〜 その大統領に彼が選出されたのです。
大統領になった彼は大胆な改革を次々と実行してゆきます。
それまで国教であったイスラム教を廃して政治と宗教を分離〜〜 そして(イスラム国家では当たり前の)一夫多妻制の廃止、男女ともに教育の義務化、女性参政権の実現等々近代化に向けて枚挙に暇がないほどの改革を断行〜〜 彼が亡くなってもう70年近くなりますが、現在のトルコを語る時に、アタチュルクに触れない訳にはゆきません―― !
● 次回は、いよいよカッパドキア〜〜 目の前に異形の大パノラマが展開します!

149 2006.10.5  割り込み情報!= 第53回オーバーハウゼン国際短編映画祭で〈金井 勝回顧展〉決定!

先日、山形映画祭東京事務局編の「ドキュメンタリー映画は語る 作家インタビューの軌跡」(未來社)の出版パーティーがアテネ・フランセの地階であって行ってきました。
本書は、〈山形国際ドキュメンタリー映画祭の機関紙 「Documentary Box」に1992〜2006年にかけて連載されたインタビュー〉を元に再構成された書籍です。
ここでは監督は勿論のこと、ドキュメンタリー映画に貢献してきた技術者たちのインタビューも収録されており、因みにぼくも撮影監督・たむらまさき(= 田村正毅)のインタビュアーとして参加させて頂いております。
値段は〈4800円+税〉ということですが、日本の記録映画を語るとき極めて重要な資料となる筈ですので、何卒宜しく〜〜 !
さてその会場で、小川プロのプロジューサーでもあった伏屋博雄氏から思いがけぬお言葉を頂戴しました。
何んとそれは、HP〈映像万華〉に連載中の〈我らが夏の日の旅=トルコ〉の拙文を褒めて頂いたということなのです!
が、HPには誰がご訪問されているか分かりませんので、こちらも(映画同様に)手が抜けないな、と改めて感じました〜〜 !(笑)
またその会場で何人かの人たちからお祝いの言葉を頂きました。
それは来年度のオーバーハウゼン国際短編映画祭に、私の〈回顧展〉が決定したからです!
実は先月の初めに、交換留学(?)でドイツ滞在中の中沢あきさんから突然メールがきて、「私も良くは分からないのですが、オーバーハウゼン映画祭のスタッフが来年度のカタログに金井さんの略歴を載せたいといってきました。何度かそちらにメールを送ろうとしたがアクセス不能だったいうことで私のところへきたみたいですが・・・・・」といった内容でしたので、何のことか全く分からないまま、とりあえずそのメールの〈返信〉に簡単な英語の〈略歴〉をつけて送っておきました。
(それにしても困ったものです!皆さんも苦労されていると思いますが、ぼくの所へは毎日200通余りの迷惑メールが届き、憤ろしい限りです!
その対策としてとった〈メッセージ〉から入る〈送信者を禁止する〉をクリック〜〜 、或いはその辺りが原因となって映画祭からのメールを拒否したのかも知れませんね〜〜)
ともあれ、
そういったような訳ですので、その後はオーバーハウゼンのことはすっかり忘れてました。
が、暫らくしたある日、受信トレイの長々と続く〈迷惑メールの列〉の中に、何と映画祭ディレクター:Dr.Gassからのメールを発見〜〜 それが〈回顧展〉へのオファーだったのでした―― !!
前にも触れましたが元旦に父が他界しましたので、
彼岸(の中日は拙作の上映会があって駄目でしたが)に墓参のため帰郷〜〜 その時〈回顧展〉のことを(身内のものに)話しましたが、同じ母の産道を這い出てきた筈の〈はらから〉の反応は至って素っ気なく、 「ふーん」で終わってしまいました・・・・・!(笑)
が、さすがにこの出版パーティーに集まった方々はみな見識の高い御仁たち〜〜 その〈反応〉に、改めて気合を入れられたという次第〜〜 心から感謝いたします!

● 次回は、〈我らが夏の日の旅 = トルコ〉に戻り、世界遺産でもあるパムッカレ〜〜大自然が造り上げた〈綿の城〉です。


148 2006.9.15  我らが夏の日の旅=トルコ 〜 そのU エフェソスの遺跡

ぼくはTVドキュメンタリーを長くやっていたこともあり、また一時期 司馬遼太郎の世界に嵌っていたこともあって日本を中心とした極東の歴史については少しは知っているつもりですが、世界史となると高校の授業でぼんやりと聞いていただけ〜〜特に地中海世界とその周辺のことなどについては極めて疎い存在でした。
しかし数年前から〈西洋美術〉に惹かれるようになり、昨年行ったイタリアでは〈ルネッサンス・アート〉に圧倒されました。そして、そのアート(&アーティスト)の背景となる民族、宗教、文化、政治、経済、軍事などへの関心も高まり、地中海へ、エーゲ海へとぼくの心が駆り立てられたという訳です。(笑)
さて、先号の〈トロイア〉でも触れた古代ギリシャ最古の吟遊詩人・ホメロス〜〜 その彼の生誕の地といわれているのが(ギリシャではなく)エーゲ海に面したトルコ第三の大都市・イズミル(イズミール)〜〜 その後彼は、ギリシャ領のキオス島に移り、更にイオス島に移住してそこで生涯を終えたといわれています。
その大詩人の生誕地・イズミルの辺りは古くから開けた地域で、近くには〈エーゲ海の二つの薔薇〉と称される世界最大級の古代都市遺跡があります。
そのひとつがペルガモン王国の遺跡、残りのひとつがエフェソス遺跡〜〜 しかし、遺跡を2つ並べてみてもHPとしては余り面白い頁にはならないと思いますので、ここではその後者・エフェソスだけを取り上げることにします。
その古代都市・エフェソスの起源ですが、ギリシャの女性戦士で知られるあのアマゾネスによって建設されたという伝説も残っているそうですが、確かなところでは、紀元前1200年頃にイオニア人がギリシャから移住してその肥沃な土地と交易によって発展させ、やがて地中海世界で最も裕福な都市国家へと成長していったといわれているのです。
クレテス通り
左に見える石柱の外側には歩道があった
その歩道を彩る見事なタイル絵 仕切りのない公衆トイレ(= 勿論水洗トイレ)
1859年から始まり、数回にわたる大掛かりな発掘調査によって浮かび上がった古代都市国家・エフェソス〜〜 その黄金期は、ローマ帝国の支配下(紀元前133年)に入ってからで、ここでは数々の国際会議も開かれたそうです。
そこには大理石の大きな建築物が立ち並び、馬車が通ったであろう大通り(= クレテス通り)〜〜 その通りの左脇には何と歩道もあって美しいタイルの文様と水鳥が描かれていました。
そして通りの右側〜〜 そこには紀元前二世紀に造られたという公衆浴場と、公衆トイレがありました。浴場は勿論のこと、トイレも当時は社交場で、用を足しながら大切な取引などの情報交換もしていたといわれています。
さて、辺りを睥睨するかのようにして建つ建築物が眼を惹きます。
それはアレキサンドリア、ベルガモンに次いで当時世界第三位の蔵書を誇っていたケルスス図書館〜〜 二世紀の中頃にこの地の知事を務めていた父(ケルスス)を記念してその息子が建てたものだそうです。(実は、父の墓を造りその上に建造されている)
前門には英知、徳性、思慮、学術を表す女性像が配置されていて実に優美〜〜 言うまでもなく、ここはエフェソス遺跡のシンボル的な存在となっているのです。
図書館の柱や壁、石像も見事でしたが、その前の通りの名は何と大理石(マーブル)通り〜〜 文字通り大理石の太い柱が立ち並び、美しい大理石で舗装されていました。
その大理石通りの一隅で、不可解なマークを発見―― !
それは娼館への案内図だそうで、足型はその場所への方向と、この足型より小さい男(= つまり子供)は駄目だったと、現地ガイド(= トルコ女性)は微笑みながら説明します。
ともあれ、娼婦というものは古代から存在しており、案内書にも「世界最古の職業」だとありました。(笑)

ケルスス図書館の正面 大理石が圧倒する
マーブル通り
娼館への案内で〈最古の広告?〉
足型の上方には女性の絵が描かれている

現在とは違って、古代のエフェソスは海岸線が直ぐ近くまで迫っていて繁栄する〈港湾都市〉であり〈国際都市〉でもありました。当然多くの歴史上の人物もこの地に登場します。
先ずは東征のアレキサンダー大王〜〜 当時ペルシャの支配下にあったエフェソスを彼が開放し、その将官のひとりであったシマコスが(大王の死後)このエフェソスの発展に尽力しています。
またあの古代エジプト(プトレマイオス王朝)の女王・クレオパトラ〜〜 彼女も夫・アントニウスと連れ立ってきていたという資料も残っているようです。
更に時代は下り、キリスト教布教のためにやってきたのが聖パウロ〜〜 彼はこの地に三年間(65〜68年)おり、その間暴徒と化した民衆に襲われたり、投獄されたという記録も残っています。
一方、聖ヨハネも聖母マリアを伴ってやってきて、ここで福音書を著し、その最期もエフェソスだと考えられているそうです。(附記:エフェソス遺跡からバスで30分ぐらい行ったところに、聖母マリアがヨハネと晩年を過ごしたという〈聖母マリアの家〉があります)
様々な歴史を秘めた都市国家・エフェソスの遺跡〜〜 下の二枚の写真は音楽堂と野外大劇場ですが、それらが造られた時代は、日本では弥生時代にあたりますので、当時の東西の人々の〈文化〉への拘りにはかなりの隔たりを感じさせられます。
その音楽堂の方は、(当時は)屋根があって吟唱や音楽祭などが開催されていたようです。あるいは後の吟遊詩人たちがホメロスの「イリアス」や「オデュッセイア」を吟じていたのかも知れません。
野外大劇場の方は、一世紀から二世紀にかけて(ピオンの)丘の斜面に築かれたもので、何と最大収容人員 2万5千です!この壮大な劇場で、その昔どのような演劇が演じられたのかは(手元の資料にはそれに触れたものがなく)定かではありませんが、現在でも〈エフェソス・フェスティバル〉などで使われているようです。
1千4百人を収容できる音楽堂 (オデオン) 2万5千人も収容できる野外大劇場
古代には劇場の直ぐ近くまで海が迫っていたという

● 次回は、世界遺産でもあるパムッカレ〜〜大自然が造り上げた〈綿の城〉を紹介します。


147 2006.8.25  我らが夏の日の旅=トルコ 〜そのT トロイアの木馬 〜

先月、妻と10日ばかりトルコへ行ってきました。
近頃のぼくたちは海外旅行に積極的になっていて、オーバーハウゼン映画祭の関係で一昨年はドイツに行き、昨年はルネッサンス・アートを学ぼうとイタリアへ〜〜 そのイタリアで観光ガイドが語った〈ローマを統一した大帝・コンスタンティヌスとキリスト教〉、〈そのコンスタンティヌスが遷都したビザンティウム(現・イスタンブール)の東ローマ帝国〉・・・・・ このことが何故か脳裏の片隅に引っ掛かっていたのですが、(先号でも触れた)塩野七生著・「コンスタンティノープルの陥落」と出合ったことで益々トルコへの関心が高まったという次第です。
さて、昼過ぎに成田を発ったトルコ航空の旅客機〜〜 およそ11時間で(歴史的には)〈宗教〉や〈民族〉が激突した古都であり、(地理学的には)〈アジア〉と〈ヨーロッパ〉に跨った類稀なる都市―― イスタンブールに着きました。
これからの旅を任せるバスの車窓からも、そして最初の宿となった〈新市街地〉にあるホテルの(11階の)窓からの(暮れなずむ空の下の)眺めも、やはりヨーロッパのそれとは趣が異なっていて、アジアとアラブが交じり合った〈荒っぽさ〉が漂っていました。
翌日の午前中は、イスタンブール・〈旧市街地〉にある幾つかの観光スポットを見学しましたが、その辺りはまた後日の見学予定に入っていますので、最後に纏めて紹介させてもらおうと思っています。
〜〜 といったような訳で、その日の午後、ぼくたちはフェリーに乗ってマルマラ海を渡り、エーゲ海に面したチャナッカレに一泊〜〜 翌日はギリシャ神話でお馴染みのトロイアの遺跡です。
ぼくの本棚には、新潮社の「ギリシャ神話」と、人文書院の「ギリシャ悲劇全集」の内の2冊、そして数冊のギリシャ神話の研究書があります。
映画をやるからにはギリシャ神話を齧っておかなければと勇んで購入した書籍なのですが、読んでみるとそのどれもがモタモタした流れになっていて退屈〜〜まあそれなりに頑張ってみたのですがどうにも身が入らず、何時の間にか埃の中に埋まっていたという次第なのです。(笑)
この旅で〈トロイア遺跡〉にも行くので何かないかなと〜〜 出発(の数日)前に本屋で文庫本を漁っていると、阿刀田 高・「ギリシャ神話を知っていますか」という文字が眼に飛び込んできました!
目次を見ると、そのトップバッターが「トロイアのカッサンドラ」〜〜 有難いことに、分かり易い文章で簡潔に纏められており、もしあの時にこういう入門書があったら・・・・・と、心底思いました!
更に、旅から帰って読んだ同氏の「ホメロスを楽しむために」は最高〜〜 著者自身がギリシャやトルコに足を運んでゆかりの地を探訪しながら書いたエッセイで、何時の間にかぼくはのめり込んでいました・・・・・!(笑)
皆さんの中に、これから〈ギリシャ神話〉をやってみたいと思っている方がいらっしゃったら、先ずこの2冊を読んでから始められることをお薦めします。
また阿刀田氏には「新トロイア物語」というのがあることも分かりましたが、本屋で注文してみたところ、〈在庫ナシ〉ということで残念に思っています。
さて、その〈トロイア戦争〉の内容を掻い摘んで記すと、スパルタ(古代ギリシャの一都市国家)の王妃・ヘレネがトロイアの王子・パリスに誘拐されたのがことの始まり〜〜 そのヘレネを取り戻すために(ギリシャ諸国の盟主的な存在の)アガメムノンを総大将とするギリシャ軍が10年間にわたりトロイア城を包囲の後、アテネ女神が(ギリシャ軍の)知将・オデュッセウスに木馬の建造を吹き込み、その木馬に兵士を忍ばせてトロイアを壊滅したというもので、〈ギリシャ神話〉の中でも最も良く知られている話のひとつです。
ところが、この〈木馬の話〉はホメロスの唄「イリアス」には欠落していて、他の吟遊詩人たちが唄い上げたものから〈トロイアの木馬〉の伝説が伝わっているのだそうです。(しかし、もうひとつの唄・「オデュッセア」の中には〈木馬の話〉はあります)
古代ギリシャ最古の吟遊詩人・ホメロス(紀元前900年〜800年)の作った叙事詩には、「イリアス」と「オデュッセイア」があり、前者は〈トロイア戦争〉の10年間を歌い、後者はその〈トロイア戦争〉の勝者であった(ギリシャの武将)オデュッセウスが、トロイアからの帰国の途中で遭遇した10年にわたる海上漂流の冒険譚です。
〜〜 といったような訳で、〈トロイア戦争〉自体も〈伝説上の戦争〉と思うのが後生の人々にとっては至極当たり前の考え方だといえましょう。
ところが十九世紀になって、ドイツの片田舎の貧乏牧師の倅にハインリッヒ・シュリーマンという少年が現れ、彼は父から聞いたこの〈トロイア戦争〉を〈歴史上の戦争〉と頑なに信じながら成長したのです!
やがて運にも恵まれ商人として大成功したシュリーマン〜〜 が、突然41歳(1863年)の時に商売から完全に身を引き、49歳になってその持てる財力を(少年時代からの)夢であった〈トロイア遺跡〉の発掘に注ぎ込むのでした―― !
彼は、「イリアス物語」の細部を思い起こしながらヒサルルク(ヒサルリク)の丘こそトロイア城のあった所だと結論を出し、作業開始〜〜 苦労の末、3年目にしてようやくそれらしい遺跡に辿り着いたのです!
更にシュリーマンの発掘は本格的に進められ、その結果最初の発見は所謂〈トロイア戦争〉のものではなかったことが判ります。
その後の度重なる調査でこのヒサルリクの丘には、第一市から第七市までの町が複雑な層を成していて、最初の発見は第二市の遺跡であり、〈トロイア戦争〉(= 紀元前1250年頃といわれている)のそれは第六市だったということが判明されたのです。
ともあれ、少年時代の夢を信じ続けてたシュリーマンに、乾杯―― !
トロイアの木馬(勿論観光用に造られたもので、中にも入れます) トロイアの遺跡で・・ (考えていたよりずっと小規模な遺跡でした)

● 次回は、エーゲ海最大規模の古代ローマ遺跡・エフェソスを紹介します。


146 2006.7.12  上映を終えて、心はイスタンブールへ〜〜 !

7月1日と2日の両日、space neo の佐々木夫妻を中心とした友人たちに〈古稀記念〉としてぼくの全作品を(神田小川町にあるneoneo坐で)上映して頂きました。
会場のスペースの問題などもあって心配しておりましたが、過不足なく理想的な観客数〜〜 上映関係者の皆様、そしてご来場頂きました皆様方に心から御礼申し上げます。

上映前のneoneo坐の表 
実際の誕生日は(昭和11年)7月9日ですが、こちらの都合もあって、丁度1週間ばかり早い誕生会となりました。
目の前に7本の蝋燭を立てて現れたバースディー・ケーキ〜〜 その火を一気に吹き消しましたが、こうしたことは生まれて初めてだったので、ちょっと恥ずかしかったのですが、、、、、後になって段々と嬉しくなってきました。有難う御座いました!
さて、
作品上映とトークですが、今回は〈祝・古稀上映〉ということもあって観客はなんらかの形でぼくと繋がりがある方が何時もよりは多かったと思いました。そのためでしょうか(何時もの)ピリピリした緊張感は起こらず、トークの方もそのリラックスが基因して喋りすぎとなり、他のトーカーの時間を侵してしまったようで、誠に申し訳なく思っております。(笑)
しかしその翌日からは思わぬ事態が〜〜 楽しくさせて頂いた〈祝・古稀上映〉でしたが、やはり疲れたとみえて気力が萎え、集中力がなくなって何もしたくなくなりました・・・・・!
まぁ、二日間1時頃から10時過ぎまで缶詰状態でいたのですから、〈リラックスできた上映会〉〜〜 といっても、眼に見えないところで老体には堪えていたのだと思います。
こんな時にはジタバタしても始まらないので予定を変更〜〜 妻が推奨する小説 ・「コンスタンティノープルの陥落」を読むことにしました。
著者はイタリアなどが舞台の歴史小説家として名高い塩野七生で、題名通りこの小説の舞台はビザンチン(東ローマ)帝国の首都 ・コンスタンティノープル〜〜 現在のイスタンブールです。

「コンスタンティノープルの陥落」
塩野七生著 新潮文庫 本体438円
妻がメモッた主な登場人物
昨年イタリアに行きましたが、その時改めてローマ皇帝・コンスタンティヌスに興味を持ちました。
彼はキリスト教を初めて公認した皇帝で、後に首都をローマからアジアとヨーロッパの接点のこの地(コンスタンティヌスの都= コンスタンティノープル)に移してビザンチン帝国の基礎を固めました。
その後、大帝国の首都として千百年余りの長きに渡って繁栄を極めたコンスタンティノープル〜〜 しかし1453年5月29日、オスマン・トルコ皇帝マホメッド二世によって陥落したのです!
本書は、この戦いにそれぞれの立場から関わり、後に体験記を残した者も多くあって、その資料(史料)を基に歴史小説として組み立てられています。
女流作家とは思えぬ雄々しい筆力〜〜 中世のキリスト教世界とイスラム教世界との覇権をかけた戦(いくさ)が臨場感と迫力とで目の前に展開してゆくのです―― !
しかし、否、それ故にこそ登場人物の数も半端ではありません。
妻が読みながら登場人物のキャラクターをメモっていてくれたお陰で、一気に(気力が萎えていたぼくでも)読めたのだと思いますが、次の「ロードス島攻防記」も頗る面白く、司馬遼太郎の世界に興味のある方には塩野七生の歴史小説も合う筈ですのでそういう方にお薦め致します。

145 2006.5.25  IFF‐2006の感想と、その周辺からの余禄にして余録


〈イメージフォーラム・フェスティバル‐2006〉の東京上映からおよそ半月が経ちました。
ぼくにとって今年度のプログラムはなかなか刺激的でしたが、果たして今どれだけのことを思い出せるのか〜〜 ちょっと心配になってきました。(笑)
ともあれ、
招待作品のなかでは、IF映像研究所の講師陣の作品がみな揃って良かったのは確かで、(今回も休んでしまった)ぼくとしてはちょっとあせりのようなものを感じてしまいました〜〜 。(笑)
なかでも萩原朔美「風は木を忘れる」と、かわなかのぶひろ「つくられつつある映画」は、かなり〈本気〉にならなければ出来ないものなので、それだけに心に残ります。
特に昨年と今年のかわなか作品は、(胃癌手術があったからなのでしょうか)スクリーンから〈執念〉のようなものが滲み出ており、こうゆう作品を超えるのは大変だと思いました。
他の招待作品の中では、五島一浩「Different Cities」が燻し銀のような深い光を放っていました!
舞台は日本のとある大都会〜〜 そこには自分の家が判らなくなった青年が彷徨っていて、見えない猫の足跡を追う女や、ビルの階段を下りても下りても外には出られない2人のサラリーマン〜〜そして、「何度測っても1周が360度を僅かながら超えている・・・・・!?」と呟く測量技師がいました。
そして途切れることなく通過する高架線の電車や、何処かで見たことのあるような広場なども映し出されますが、設定された登場人物以外には何処にも人影はなく、そこは決してあり得なくはない〈不安〉が詰まったもうひとつの別の都市なのでした――!
凄いと思ったのは、高度なテクニックを駆使しながらもその技術を抑えた形で見せた奥ゆかしさで、これまでの五島作品から更に進化した傑作〜〜 かわなか氏とはまた別の〈執念〉をそこに感じます。
次は、映像パフォーマンス〜〜 これまでこの種のもので心をときめかせたことは殆どありませんでしたが、小浜正寛「ボクデスの『ショート・ビデオパフォーマンスですよ!』」には、圧倒されました―― !
繰り出される奇抜なアイデアの連続と、練り上げられたテクニック〜〜 そのアニメ映像と身体(からだ)との絶妙な掛け合いに小浜氏は天性の才能を見せつけます!
が〜〜パフォーマンスの長所はその〈同時同空間〉性にあり、その長所の裏返しとしてその場で味わった〈感動〉も時間と共に薄れてゆくという運命をそこに内包しているように思えましたが・・・・・どうなんでしょうか?
一般公募作品では、やはり大賞を獲った小口容子「ワタシの王子」が〈一番〉でした。
昨年発覚した〈青森の監禁王子〉事件の犯人・小林泰剛に作者自身を重ねて展開してゆく構造だそうですが、ぼく自身はその事件のことは全く知りませんでした。(笑)
ともあれ、作者は自分が小林に近いと感じたのは「この世に存在しない“絶対的な愛”というものを、見つからないと知りつつ求める行為〜〜 」だそうで、作者も〈王子〉として、公園やアパートの通路などで全裸となって示威するのです。
しかし、ぼくにとってこの作品の〈一番〉は、作者・小口容子が何と41歳だということなのです―― !(笑)
女性作家の殆どは30代半ばで終わってしまうのですが、死ぬまで〈作家性〉を貫かなければ〈作家〉とは呼べませんので、ぼくはその可能性を小口さんに賭けてみたくなったという訳なのです。
実験的なアニメーションでは、
世界をリードするイギリス人作家:10作品のプログラム= 〈イギリス・アニメーション作品集〉と、日本人作家:16作品のプログラム= 〈TOKYO LOOP〉があり、アニメブームと重なって頗る盛況でした。
前者にはかって一世を風靡したブラザース・クエイなどの作品もありましたが、ラン・レイクという新鋭作家の「ラビット」が全てを席巻〜〜 度肝を抜かれました!
そのストーリーは日本の残虐な御伽噺とも通じるところがありましたが、そのラジカル性もこのアニメではドライで潔い展開〜〜 アナーキーな笑いとして爆発させます!
また画面に映ってくる物体には絶えず英語の字幕を入れたのも斬新〜〜 それが何故か効果的なのです。(上のポスターとなった素材は全てこの「ラビット」のスチール〜〜 よく見て頂くと、「jewel」とか「ink」とか「table」などの文字が見えると思います)
後者の〈TOKYO LOOP〉では、久里洋二、古川タク、田名網敬一などの大御所に混じって、IF映像研究所の卒業生=大山 慶、宇田敦子、和田 淳の若手が頑張っていました。なかでも和田の「声が出てきた人」はかつてない着想〜〜これからが大いに楽しみです !
その和田の卒業制作「鼻の日」も、一般公募部門で〈奨励賞〉をゲットしていましたが、同じ〈奨励賞〉に諸藤 亨の「鈴の名は」というユニークなCGアニメが入っていました。彼は8年前の卒業生ですので講師のひとりとしてとても嬉しいです〜〜!
次はインスタレーション〜〜 、
休憩時間にスクリーンの両脇で踊っていた影絵の「ファンタスマゴリー」は、伊藤隆介氏のビデオ・インスタレーションでしたが、廊下を隔てた右の小部屋には同氏の「映画の発見(現象としての映画シリーズ)」が展示されていて、こちらは場所が場所だけに見逃している方も多かったと思います。
レコード・プレーヤーの上に数頭の馬の(走る姿の)切抜きを(円形に)配置し、光源となるライトをその回転する馬に当てて壁のスクリーンに投影させる装置です。
ユニークなのはその〈シャッター〉〜〜 一頭の馬(特に脚)を走っているように見せるには光を当てたり閉じたりする〈間欠運動〉が必要なのですが、その大役をはたしていたのは何と、どこにでも転がっていそうな安っぽい扇風機でした。レコード・プレーヤーの巧い使い方と共に、そこは伊藤氏のユーモア・センスの骨頂〜〜この部屋を訪れる者の頬に笑みを零させていました。
さて、
それらの作品との出合いの他に、ぼく自身に関する思わぬ〈余禄〉もありました!
そのひとつは、奥山順市作品「W 8は16ミリ」を観た後で、奥山さんから奥さんを紹介してもらいましたが、その奥さんとご一緒だったお方(ぼくより更に年配の女性)からは、「私は、金井さんの『GOOD−BYE』のファンでした!」と突然いわれ、35年前のシーンが次々と語られたのには驚かされました〜〜 〈作者冥利に尽きる〉を、強く感じて―― 感謝!
またこのHP〈映像万華〉のことに絡んで、これまた意外な方から声を掛けられました!
かわなか作品・「つくられつつある映画」が終わった直後のロビーで、10年余りもご無沙汰しているゴールデン街の「マコ」のママさんだったマコちゃんとばったり〜〜すると彼女から、「ちょくちょくHPに訪問してますよ〜〜!」と、いわれたのです―― !
映画もそうですが、HPも表現のひとつの場〜〜 HPが持つ〈見えない繋がり〉の大きさを改めて感じました。
これからもそれなりに頑張りますので、ご訪問のほど宜しくお願致します!

144 2006.4.30  写真の顔と俺の貌(かお) 〜 〈古稀記念上映会〉のチラシを眺めながら 〜

昨日、同じ京王沿線に住むneo neo坐・スタッフの佐藤さんから、7月の初めに上映される〈古稀記念上映会〉のチラシを(高幡不動駅前の喫茶店で)受け取りました。
昨年、一昨年と2年続けてお世話になっているneo neo坐〜〜 そのオーナーである佐々木さんからこの企画を聞いたのは、確か2月の初め頃だったと思います。
その時、(自身に関する)〈祝〉と名が付くものとの間には〈距離〉を置いて生きてきたので一瞬戸惑いを感じましたが、これもまた自ら標榜してきた〈実験人生〉〜〜 その一齣だと考え直し、お世話になることに致しました。
さてそのチラシですが、IF・卒業生のしまだゆきやす氏によるデザイン〜〜 第1日目(の面)には正面からの、第2日目には横からの写真が使われていました。
劇場の〈チラシ置き場〉には原色が氾濫しているのでこのモノトーンのチラシは逆に人の眼に留まる筈だと思いましたが、 問題はその二葉の写真〜〜 「すげー爺さんだな・・・・・!」と、我ながら魂消(たまげ)たという次第なのです――!(笑)
横顔の方の左手は火の点いた煙草を挟んでいますが、昨年の2月7日からは禁煙〜〜 これらの写真が何時撮られたものなのか定かではありませんが、ともあれ、この写真よりも実物は更に「爺さん」になっているのは確かなんだと思います・・・・・!(笑)
そういえば〜〜 今年の元旦に父が96歳で逝き、その葬儀の時に遠縁に当たるというおっさんから〈父の弟〉と間違えられたことがありました ・・・・・。
身体はそれなりに鍛えており、「私、脱げば凄いんです〜〜!」 とまではいかなくとも、それなりに筋肉はしっかり付いております・・・・・ が、何時もタンクトップ姿という訳にはいかないのが頗る残念なところなのです!(笑)
しかし、何故に〈己の貌〉にそうまで拘るのかというと、
先号で掲載した〈百歳の映画作家 樋口源一郎 生命(いのち)のスペクタクル〉―― その樋口さんの代表作は、90歳を過ぎてからの「真正粘菌の生活史」(’97)と「きのこの世界」(’01)〜〜 ですので、〈古稀〉なんぞはまだまだ〈餓鬼〉の内でなければならないのです―― !(笑)

チラシA面 : 7月1日 チラシB面 : 7月2日
■ 上映会の詳細は〈上映会情報〉
■ 尚、上映会のtalker は、neo neo坐に出入りしている方々を中心にお願い致しました。

143 2006.3.18  脳内は、樋口源一郎の〈生命のスペクタクル〉!

今、IF映像研究所の〈2005年度卒業制作展〉の真っ最中〜〜 昨年度までは別々に行っていたこの卒展ですが、今年は本科とアニメが一緒になっての公開で、第29期映像制作コースの6プログラム・42作品と、第3期アニメーションコースの1プログラム・22作品〜〜 さて、あの秋山祐徳太子製作の〈ブリキの彫刻〉をゲットするのは、誰か........... 大いに楽しみです!
この卒業展と重なるような日程で、鈴木志郎康氏の〈退職記念映像展「表に現す」志郎康言語大爆発〉と、neo neo坐での〈百歳の映画作家 樋口源一郎 生命(いのち)のスペクタクル〉〜〜 いまそのスケジュール調整に悩まされているのです・・・・・ 。(笑)
15日には、IFの(卒展)Eプログラムを観た後、渋谷から御茶ノ水へと急いで、樋口源一郎監督のAプログラム= 「真正粘菌の生活史−進化の謎・変形体を探る−」、「きのこの世界」、「樋口源一郎監督 トークinゆふいん 2002」の三作品を観てきました――!
そして、そして、、、、、こんな凄い監督と、その作品たちを今まで知らなかったということに、心底仰天〜〜 同じ映画人として、恥じ入ったという次第です・・・・・!
先ずは、最初の「真正粘菌の生活史」〜〜 これは'97度作品で、樋口さんが90歳を越えてからの映画と知って、震えました!
今年ぼくは70歳になりますが、樋口さんから見れば「古稀」なんぞはまだまだガキの内なのでしょうね――!(笑)
neo neo坐の科学映画特捜隊々長の清水浩之さん(ドキュメンタリー映画作家)から送られてきたチラシで樋口監督の存在を知ったのですが、そのチラシを見た瞬間、あの博覧強記の御仁=南方熊楠が脳裏をよぎりました。
そして、会場でもらった資料で納得〜〜 樋口さんは熊楠が好きで、菌類の研究書から民俗学的なものまで沢山読んでいて、コンビを組んでいた石井董久カメラマンは(資料の中で)、「樋口さんは熊楠が描いた熊楠マンダラといわれる図形に粘菌から宇宙にまで広がる思想を見た。〜(中略)〜 『真正粘菌の生活史』には熊楠が動物でも植物でもない原初的生物と感じた変幻自在で不思議な生態が詰め込まれている。」と記しております。
ともあれ、
その動物でも植物でもない〈生き物〉たちのエネルギーを、実に魅力的な映像で捉えらたこの「真正粘菌の生活史」。そして遺作となった「きのこの世界」(’01)〜〜 ここでは森におけるキノコの役割に魅せられましたが、特に〈菌根(きんこん)〉=植物と菌類の複合体となった根= のシーンでは、大自然の神秘のベールが開かれ、菌類と高等植物とのこの〈菌根〉による〈共生〉〜〜 養分の相互補給や高山などでの根の凍結を防いでいるということなどを知らされ、感動しました!
植物好きなぼくにとって、(これまでに〈菌根〉の実物とは何度も出合っていますので)これは本当に有難い〈知識〉となったという訳です。
そして、清水氏も〈編集〉で参加している「樋口源一郎 トーク in ゆふいん 2002」〜〜 これは監督が96歳の時の貴重なインタビュー作品です。
その中で樋口さんは、「菌類などはまだ分かっていないことが沢山あります。既に分かっていることを分かり易く作るのではなく、ぼくの場合には、未解明のところを研究し追及しながら映画にしてゆく〜〜」といったようなことをおっしゃっていました。
あるいはこの辺りの考え方が、外国では高い評価を得ながら国内では余り知られてないドキュメンタリストになっているのかも知れません。が、ぼくも樋口監督の考え方こそ作家としては理想的な形だと思っています・・・・・!
監督であると同時に、研究者でもあった樋口源一郎〜〜 石井カメラマンにいわせると、「樋口さんは人一倍執念深い」人だったそうです。
「女王蜂の神秘」(’69)では、映画が終わった後も蜜蜂の研究を自宅で続け、その研究論文を纏めますが(大学の助教授から)横槍が入って潰されたそうです。
また「声なきたたかい」(’55)では、松を枯らすマツケムシの天敵を見つけますが、これも映画に協力した林業試験場の研究員のお手柄になってしまったそうです。
これらのことを樋口さんは終生恨んでいたそうです〜〜 が、結果から見ると、そういう〈恨み〉があったればこそ、その悔しさがバネになって、その偉業が達せられたのかも知れませんよね―― !
ぼくは、もうすぐ古稀ですが、
樋口源一郎監督の存在とその作品を知って、
大いなる勇気を得ました!
neo neo坐、そして清水隊長に感謝―― !

142 2006.3.2  中学の同窓会で、ヒデ子に頭を撫ぜられた・・・・・!

先日、中学の同窓会があって行って来ました。
ぼくの〈故郷〉は、
関東平野の西の果てに位置し、丹沢山塊が迫ったところに〈野〉と〈山〉の区切りをつける格好で相模川が流れ、その左岸の河岸段丘に田んぼと畑に囲また形で点在する集落(= ぼくらが生まれた当時は神奈川県高座郡田名村で、その後高座郡相模原町田名となり、やがて相模原市田名地区となります)〜〜 そんな一郭にわれ等が母校:〈町立・田名中学校〉がありました。
現在は内陸工業都市となり様変わりしましたが、当時('50年頃)は鄙びた農村で、子どもの数も少なく全校でも300人弱〜〜 同級生は(3クラスで)およそ90名でした。
その中学を卒業してから50余年〜〜古稀を迎える今、その90名の中から集まったのが男17、女17の34名―― 既に鬼籍に入った者もかなりおりますので、これはたいした数字だと思います!
さて、みんなが集まったところで委員の白井から、「それでは独断と偏見で、乾杯の音頭は、金井 勝君に――!」と、いきなりきたので仰天!こういうのが苦手なのを知っていながら〜〜と、思いましたがもう後には引けません・・・・・!
まぁ、それなりに巧くいったと思いましたが、、、、、後で、〈必要な一言〉が抜けていたことに気づきました。が、「まぁ、そんなことどうだっていいや〜〜」と、この頃は思うようにしています・・・・・!(笑)
そんな片田舎の中学校〜〜 ですが、同期からは〈かなりの人物〉を輩出しています――!
江成常夫(今回は欠席)は土門 拳賞と木村伊兵衛賞の両方を獲っている写真家ですし、他には元・国立群馬大学教授や前・相模原市の助役等々がおり、そして乾杯の音頭を押付けた白井宏尚〜〜 彼は共同通信社の社会部記者から同社の専務まで駆け上った御仁で、(定年後の)今は母校・神奈川大学の理事長となって活躍中です。
その白井とは高校まで一緒でしたが、彼にそんなガッツがあるとは思ってもいませんでした。
ともあれ、話は弾んでいつの間にか話題は〈英語〉〜〜 彼は「職業柄英語も必要なので毎日CDでネイティブの声を聴いている」〜〜 とのことでした。
実はぼくも、昨年の5月から(独学で)英語を始めています〜〜。
ドイツのオーバーハウゼン映画祭に行った時、「もっと話せたら・・・・・!」と、心底から思いましたが、大学受験を頂点にして、その後は年々縁遠くなってしまった〈英語〉ですので、もうこの世では〈無理〉〜〜と諦めました。(笑)
ところが、その映画祭で〈国際批評家連盟賞〉を受賞したものだから、世界各国からのe-mailや電話が後を絶たず、それではと一大決心〜〜 老体に鞭打っているという次第なのです!(笑) (〜〜 でも、この頃はそのe−mailも殆ど来なくなりました。が、あるいは迷惑メールと一緒に削除しているのかも知れませんよね・・・・・)
基礎英語から始めたその10ヶ月間の<成果>ですが〜〜 <単語>や<訳文>は予想を超えて順調。しかし、<リスニング>の方は一朝一夕という訳にはいきませんので、ぼくもネイティブのCDを毎日聴くようにしています。
そして、<英作文>〜〜 これも苦手でしたが、たまたま見たNHKの〈3か月 トピック英会話〉、「ハートで感じる英文法」と出会いました!
そして、そして、その革命的な<英文法>が本になっていたので更に感激〜〜 その〈本〉のお陰で、すらすらと英作文が口から飛び出すようになりつつあるところです―― !(とはいってもまだ序の口で、これからですが・・・・・)
◆ 右は〈お薦め〉の、大西泰斗/ポール・マクベイ 著 「ハートで感じる英文法」NHK出版 950円
さて同窓会の方ですが、もうみな70歳だというのに爽やかで、〈昔の話〉や〈今のこと〉〜〜 語り合うそれぞれの顔が生き生きと映えて見えます!
そんな様子を楽しんでいると、当時からおちゃぴいな子だったヒデ子がやってきて、「どうしてあんただけこうなのよ〜〜!」といいながら、ぼくのスキンヘッドをつるり、つるり、と撫ぜまわすではありませんか〜〜「ハァ、、、?!」(笑)
ぽかんとしているぼくをそのままにして、ヒデ子は舞台に駆け上り(カラオケの)マイクを握ると、演歌を唄いだしました!
それが何という唄だったか今思い出せませんが、真剣に唄うその横顔には何か惹きつけるものがあります〜〜 そういえば、彼女が〈NHKのど自慢〉にでたという噂を聞いたような気もしますが・・・・・。
ぼくらは、国民少学校3年生の夏に〈終戦〉となり、たった1日で全ての価値観が逆転〜〜 そのことによって何を信じてよいのか判らなくなりました〜〜だがその一方で、それぞれが自分の〈夢〉を見つけ、それを膨らませながら健気に生きてきたのですよね!
相模川の河川敷で〈草競馬〉が時々開催されましたが、そこで少年ジョッキーとして活躍したオノデン君は後に工事会社の経営に成功〜〜 延べ数にして百頭余りの馬主―― が、今回は欠席でした・・・・・ 。
最後に幹事長が、
「これからは毎年〈同窓会〉を開くので、宜しく――!」といいましたが、みな齢(よわい)七十〜〜 永く続くことを念じてはいます、、、が!
(敬称略)

141 2006.1.25  ニューPCでの不慣れな操作で..... IF28期選抜展


前にもこのページで申し上げましたが、暮れにパソコンを換えました。
’99の秋に買った前のパソコンはsotecで、OSはWindow’98〜〜 この〈映像万華〉もそこについていたFront Page Expressというのを使って立ち上げたのです。
今度のパソコンのOSはWindow XP〜〜 勿論、Front Page Expressなどという有難いソフトはもう付いておりませんので、店員が薦めてくれた〈ホームページ・ビルダー10〉というのをインストールしました。
HPは、こちらの好みで作りたいのでなかなか大変〜〜 OSのXPに問題があるのか、はたまたHPソフトがいけないのか〜〜 否、一番悪いのは強情なぼくなのかも知れませんが、どうもまだまだしっくりとはいきません―― !
こういうと、何だか今の彼女と反りが合わなくて、前の彼女を恋しがっているような感じ〜〜 に似て、嫌ですょねぇ〜〜!(笑)
多分、もう少し慣れてくれば解決するのかも知れませんが〜〜 今こうしてキーを叩いていても......... 例えば〈文字〉のコピーなどは、’98では〈ctrl 〉キーを押しながらドラックすれば簡単にOKだったのに、XPだとマウスの右クリックの〈コピー〉&〈貼り付け〉なのでとても不便なのです!
いま最も悩まされているのは、何と言っても不自由な〈リンク〉――!
これまでは上にある〈編集〉をクリックするとそこに〈ブックマークの設定〉があり、何処にでもその〈ブックマーク〉が付けられ、簡単にリンクを貼れたのですが、今度のソフトでは駄目なようなのですょ.......!
PC関連の機能などは、日進月歩、時間と共に進化し便利になるものとばかり思っていたのですが〜〜 これには本当に参っております―― !
〜〜と、言ったような訳で、1月15日に行われた〈IF28期選抜展〉での持ち越し〈グランプ発表報告〉をどうしたら良いか迷いました。
本来なら〈IF28期の頁〉に〈大賞発表&講評〉の項目を設け、そこにトップページからダイレクトに繋げたかったのですが〜〜 !
ともあれ、例年だと卒業制作展の最終日に大賞&入賞(4作品)が決まるのですが、この春の時点では〈ブリキの彫刻〉を与えるほどの作品がなく、大賞は〈選抜展〉まで持ち越しとなっていたのです。 ※ 写真右は秋山祐徳太子氏製作の〈ブリキの彫刻〉
卒展で予選を通ったおよそ30作品= 4プログラムが、1月8日と15日の両日曜日に上映され、ぼくは8日にCプロとDプロを見て、15日にBプロとAプロを見ました。
卒展の後の講評などを参考にし、各自がそれぞれを〈作品〉として充実させて発表〜〜 ということになっていたのですが、最初に見たCプロには進歩した作品は見当たらず、Dプロも全体としては低調〜〜そんな中で国井智美『私が選んだ父』は随分と良くなっていて光ってました!特に蒸発した父がいるんじゃないかと渡ったポルトガル〜〜 その映像とナレーションに、拒否できない〈DNAの愛情〉が伝わってきて、好感が持てました。
Bプロで良くなっていたのは、山本 武『東京タワぁ』と、鹿又紀恵『巨像恐怖症』〜〜 共にかなりのレベルに達していました。
そしてAプロ〜〜 次々と秀作が現れて俄然盛り上がります!中でも野村雅夫『CREVASSE』小坂由布紀『little circus』、グループ制作・GATERA『つき・よみ』は魅力的〜〜 こうなると、プログラムのばらつきが問題になってきますよね――!
ともあれ、こうした作品が専任講師の間で議論され、大賞はGATERA=ヤジマチ サト士・三輪浩光・山本 武・刈込静子・岡部 奏の『つき・よみ』に決定しました――!
この『つき・よみ』は16mmフィルム作品―― その発想の大胆さと技術上の緻密さとで織り成された新しいシュール〜〜 久々の傑作シュール・レアリズム作品でありました!
背景の熱帯植物群や登場人物も良かったと思いますが、特に惹かれたのが耳を初めとする小道具たちの存在感〜〜 その作成と、それを〈表現〉として活かすための努力に、感心させられました。
おめでとう!これは文句なく、大賞作品です!  ※ 写真左は『つき・よみ』の一場面
■ 詳細は、第28期の頁

bP40 2006.1.13 元旦に、父が逝った・・・・・!                    

年の瀬の29日早朝から、妻と妻の母の三人で草津に2泊3日のバス・ツアーに出掛け、大晦日の晩に帰ってきました。数年前に夫を亡くしているので義母ひとりのでのお正月は寂しいだろうと思い、年末は温泉で、三箇日は我が家で〜〜ということになったのです。 ※ 写真は草津温泉:旅館の氷柱
しかし、家を空けるのに気掛かりなことがなかった訳ではありません。
11月の中頃に(ぼくの)父の体調が悪くなって近くの病院に入院しており、草津に行く前に妻と見舞いに行った時には意識もしっかりしていて、「忙しいだろうから、早く帰っていいよ・・・・・!」と言われてしまったが、何せ96歳の高齢なので心配だったのです。
さて元旦は、朝の6時に高幡不動尊に三人で出掛けました。生憎の曇り空ではありましたが、親孝行の真似事ができて爽やかな気持ちの初詣〜〜 勿論そこで念じたのは、父の病状の回復です!
晴天だとその初詣の後、多摩川の支流・淺川へ出て、そこで初日の出を拝むのが慣例でしたが〜〜 ちょっと無理なようなので、諦めて帰宅しました。
妻の故郷・富士市風のお雑煮と、〈草津行き〉の前日にぼくが漬けておいた数の子で、お正月気分を満喫〜〜 と、そこにけたたましく電話のコールが鳴って、悪い予感に身体が硬直―― !
やはりそれは兄からで、「急に父の様態が悪くなった」と言うことだったのです――!!
お正月のスケジュールは一変〜〜 義母は帰省することになり、ぼくは電車を乗り継いで(相模川左岸の河岸段丘に位置する)実家へと駆けつけました―― が、時すでに遅く、8時38分に死去したという父の遺体が、病院から家に到着したところでした・・・・・ !
ぼくの家系はみな長寿で、祖母も母も90歳まで生き、勿論亡くなった年は違いますがともにお盆の最中で、祖母が14日、母が15日に逝きました。そして元旦の父の死〜〜この分だと、ぼくの最期も祭祀の日と重なるような気がしてきます〜〜 。
ともあれ、正月ですから葬儀の日取りが大変です。
火葬場が開くのが10日だと判って、斎場を通夜の9日、葬儀の10日と確保〜〜 これで一先ずほっとしましたが、ぼくも(母を見送った後駆けつけた)妻もただ兄夫婦や近所の人たちのお手伝いをするしか能がありません・・・・・。
この父の死と、その後の葬儀とで、ぼくも妻もへとへと〜〜 何もする気が起きませんでしたが、そう何時までも落ち込んではいられないので、気分を一新して頑張ります!
このHP〈映像万華〉もこれからは定期的に更新していきますので、今後ともご贔屓の程宜しくお願い致します――!

bP39 2005.12.16  ニューパソコンで初アップロード〜〜!
長い間ご無沙汰いたしまして、誠に申し訳ありませんでした。
実は、6年前に購入したSOTECが毎日のように〈原因不明のエラー〉を発生するようになりましたので、一週間ほど前に新しいPC= O’ZZIOに換えました。
長年お世話になったそのSOTEC〜〜 PCの楽しさをぼくに教えてくれ、メールやワープロ作成などで活躍してくれましたが、何といってもその有難さはこのHP<映像万華>で5年半ものあいだ頑張ってくれたこと―― 心から感謝いたしております。
さて、その<映像万華>ですが、今までのソフトはwindows−98に<付録>のような形でついていたFront Page Express〜〜 それがそれ以降のwindowsからは消えましたので内心穏やかではありませんでした。何時かやってくる〈PCの交換〉の日が恐ろしく、脅えていたのです・・・・・!(笑)
怠け者のぼくですが、何せ長い間綴ってきたので<映像万華>は膨大な量になってしまいました。
そこで、いっそのこと古くなったものは消してスリムにしようと考えたこともありましたが、そうはいかないのが現実〜〜 例えばイメージフォーラム:サマースクールの〈16mm講座〉などは、もうその担当から外れて数年になるので一番〈削除〉しやすい頁の筈ですが、ぼくの上映会の観客の中に、その〈16mm講座〉の受講生だった顔もあったりして、実は大変に〈有効〉な頁だったことが分かるのです―― !(笑)
ともあれ、膨れ上がったこのサイトを如何にして新しいPCに〈お引越し〉させるか・・・・・!?
そこで一番ポピュラーなソフトだという〈ホームページ・ビルダー〉をインストールし、(ダウンロードした)root ftp1.66を使ってリモートサイトからダウンロード〜〜 そして、ガイドブックと格闘した末に、ほぼ全てのページの〈転送〉に成功しました!
これで長年うちに籠っていた〈PCへの不安〉が一気に解消し、気分は爽快〜〜 妻と「牛角」で祝賀会をやったという次第です――!(笑)
とはいっても、PCが換わり、windowsも変わり、ソフトの操作も前とはかなり違うので大変です!
ちなみに今日のテーマは<リンク>〜〜 項目の頭に<ブックマーク>を作成してそこにリンクを貼るのですが、今のところはまだ成功してはおりません――!?(笑)
そんな訳ですが、今後ともご贔屓の程宜しくお願い致します。

bP38 2005.11.27  天晴れ唐十郎〜〜 君は男だ!

もうご承知のことと思いますが、ぼくはイメージフォーラム映像研究所と東京造形大学で〈映像制作〉の指導をしています。

その〈映像制作〉ですが、それは〈商業映画監督〉を育成するというものではなく、アート表現のひとつの手段としての〈映像制作〉であり、こちらの役目は受講生個々のなかに眠っている〈才能〉を引き出す〈お手伝い〉です。

こうした個人レベルの〈アート映像〉は、未来の映像文化を考えるときに不可欠な存在であり、あのカンヌ映画祭でも昨年度から〈監督週間〉の中に〈オルタナティブ・プログラム〉が組まれるようになりました。
Alternative とは「既存の支配的なものに対する、もうひとつのもの」(広辞苑)〜〜 つまりカンヌでも〈アート映像〉〈実験映像〉を無視することが出来なくなってきたということなのです!

国内外にはこうした〈アート映像〉を対象にした映画祭や映像コンクールが沢山あり、受講生の作品の中に優れたものが生れた時には(ぼくは)出品するように薦めていますし、現にその受賞者も沢山出ています。

さて―― 、
先日のことになりますが、〈夕刊 フジ〉を開くと「唐十郎 紫綬褒章辞退 アングラの意地」という大見出しが目に飛び込んできました――!

その記事の中に「〜〜 褒章の受賞者は、衆参院議長や各省大臣らが推薦し、内閣総理大臣が審査したうえ閣議決定される〜〜」とありました。
つまり、現体制の中枢によって選ばれる〈やんごとない賞〉という訳です。

その〈やんごとない賞〉の〈有難さ〉に目が眩み、己を見失ったと思われる御仁も増えてきました…… !(笑)
〈歳〉をとり、〈時代〉も変わると、あの60年代に息巻いていた其奴(そやつ)の〈反権力思想〉は何処へ〜〜 全く〈人〉は信用できませんな…… !(笑)

そんな中で今回の唐十郎の〈辞退〉は快挙―― !
「僕は紅テントでも、お客さんにワイルドスピリットを求めている。受賞のために尽力してくださった関係者の方々にはじゅうじゅう謝ったが、今回の辞退はお客さんに対する礼儀です」と述べており、天晴れ也―― !

自分でも幾つかの国際賞を獲り、受講生にもコンクールへの出品を薦めているこの勝丸〜〜 それが何故、紫綬褒章はいけないの!?〜〜 と思われる方もいるかも知れませんが、要は〈己の生き方に筋を通せ!〉ということであります!
とはいえ、当の唐十郎でさえ「〜〜2週間ほど考えさせてもらって、お断りすることに決めた」そうだから、怖いですね―― !


bP37 2005.11.12  ペンキ塗りに没頭す―!

気力が萎えて、〈何もしたくない〉時があなたにも有りませんか〜〜 ?
ぼくの場合は今がその最中で、その〈何もしたくない〉に無防備に浸っていると、何もしてないそのことが苛立ちの元となって盛り上がり、やがてそれがぼく自身を虐めにくるのだから厄介なのです…… 。(笑)

そんな時に一番避けたいのが〈PCと向き合うこと〉であり、そこに〈文字を打ち込むこと〉なのですので、あるスパンでアップロードをしなければならないHPの主としてはチョッとしんどいです。

さて、〈何もしたくない〉のに、〈何もしない〉と苦しめられる〜〜 この己の中の矛盾をどうしたらコントロール出来るのか……!?
そこで浮かんできたのが〈ペンキ塗り〉〜〜 錆を落とし、傷んだ個所を補修し、そして無心になってのペンキ塗り〜〜 先ずは成功!この単純作業の繰り返しによって〈精神の爆発〉を何とか食い止めております〜〜!(笑)

ほぼ理想に近づいた「オブジェ垣」

物置A

庭木の皮を剥いで乾燥させ、それに防腐剤を塗ってから仕上げた「オブジェ垣」、そして『ジョーの詩が聴える』のラストシーンで御馴染の「物置A」〜〜 既に「物置B」も完了してますが、プレハブの「離れ」はまだで、こちらも風雪に耐えてきた愛(いと)しい奴なので、下拵えに時間を掛けてからしっかりと塗ってゆこうと思っております。


bP36 2005.10.29  急に忙(せわ)しなくなってきた〈芸術の秋〉― !

チョッと前までは、「暑い、暑い」と嘆いていたぼくですが、木の葉が色づき始めると急に寂しさが忍び寄ってきてうら哀しくさせます。
更にその哀しみを深めたのがあのこと〜〜 成す術もなく千葉ロッテの軍門に降った我が阪神タイガースの不甲斐なさ……です!

しかし、月末が迫ってからは急に身のまわりが忙しくなり、〈寂しさ〉や〈哀しさ〉に構ってはいられなくなりました!(笑)
今日もこれから鈴木志郎康氏の写真展〈My多摩美上野毛〉と、同時開催の石井茂写真展〈Light Scape〉とを見にゆき、その後がイメージフォーラムの〈16mm講座〉〜〜 〈編集指導&講評〉を行うことになってます。

そして明日は、IFシネマテークの〈長編実験映画の快楽〉〜〜 、
ぼくの『王国』が2時半からで、4時半からは(見落としていた)鈴木志郎康作品『比呂美−毛を抜く話』を見るつもりです。

さて、その『王国』ですが〜〜 、
人の巻・『無人列島』(’69)、地の巻・『GOOD−BYE』(’71)に続く〈天の巻〉として’73年に発表〜〜 これで『微笑(わら)う銀河系』三部作の完成となっています。

その三部作がこの秋に渋谷高円寺とで変則上映となります。
三部作とはいえ、内容においても、(表現の)方法論においても夫々に〈独自の世界〉を持たせたので、その評価も様々〜〜 松本俊夫氏は、『無人列島』と『GOOD−BYE』は高く評価してくれましたが、『王国』にはかなり厳しい批評でした。(参考=フィルムアート社「幻視の美学」

しかし、その『王国』を三部作の頂点と位置付ける研究者も少なくありません。
この5月にneoneo坐で〈『微笑う銀河系』三部作一挙上映!〉をやりましたが、その時のトークが映画研究者の村山匡一郎氏で、用意して頂いた資料がマックス・テシエの「革命の冒険と災難」〜〜 テシエ氏には『王国』が気に入ってもらえたようです!

「日本映画の現在 1959-1979」
マックス・テシエ「革命の冒険と災難」からの抜粋

フランスの単行本「日本映画の現在 1959−1979」
写真は『無人列島』

「もっとも独創的な映像作家は、疑いなく金井勝(1936年生れ)である。彼はこう
した〔絶対的〕インディペンデントの価値を知っている。というのも、彼は1969年から
1973年にかけて3本の作品を撮った後、製作を中断することになったからだ。

『無人列島』は完全にシュールレアリズム映画である。そこでは、金井勝はグロテ
スクなファンタジーを思う存分に膨らまし、幾らか前衛演劇の何人かの作家のよ
うに、日本的な生活のかなり具体的な要素から幻想的な世界を創造している。
「ヒーロー」は狂った尼さんたちの修道院から逃れて息子を産むが、息子はヒー
ローの背中に押し込まれ、このようにしてヒーローは青春期まで身を宿す(永遠に
子供を背中に負う日本の母親というテーマの変形)。こうした見たこともない魅惑
的な視覚的な詩において、金井勝は確かにフェルナンド・アラバールや何人かの
スペインの作家を想起させるが、しかし典型的に日本的な形式感覚と彼のもので
しかない残酷で不条理な発想を持ってである。

「漫画」から受け継いだあらゆる幻想的なもののなかで日韓関係の象徴的な喚
起である『GOOD−BYE』の後、金井勝は『王国』によって詩的異形の巨匠とし
て認められた。そこでは、色彩の闖入が金井勝の宇宙を完全なものにしている。
それは鳥類学者の著しく「邪悪な」人物(若松孝二の同僚の一人である大和屋
竺によって演じられた役)を巡る世界であるが、主人公の彼はクロノス王に絶え
ず打ち勝とうとする。クロノス王の王国(ガラパゴスで撮影され、金井勝はドキュ
メンタリーを撮った)に入り込むため、彼はアヒルの肛門を通り、ミクロコスモス
からマクロコスモスを通過して、クロノス王に挑む。

『王国』は、日本や他の国の映画がわれわれに可能ならしめた、もっとも未知で
興奮させる旅の一つである。金井勝の映画は、その個性そのものによって、分
析には適さないとはいえ、完全に主観的な同意(あるいは拒絶)に応じるものなの
である。 (訳・村山匡一郎氏)

〔註〕 文中に〈アヒル〉とありますが、正しくは渡り鳥の〈カモ〉です。

※ このIFシネマテークと高円寺会館での上映は、FilmではなくminiDVによる上映となります。
ニュープリントから起こしたminiDVによって、塵や疵、退色画面ともおさらば〜〜 その鮮明なる画像を、とくとお楽しみ下さい―― !


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