20        トルコ歴史紀行(2006・夏)

   
憧れの国=トルコへ行き
    既に〈かわら版〉で5回にわたって連載しましたが
      読みやすいように纏めてみましたので、宜しく――!

   我らが夏の日の旅 〜そのT トロイアの木馬 8.25
先月、妻と10日ばかりトルコへ行ってきました。
近頃のぼくたちは海外旅行に積極的になっていて、オーバーハウゼン映画祭の関係で一昨年はドイツに行き、昨年はルネッサンス・アートを学ぼうと
イタリアへ〜〜 そのイタリアで観光ガイドが語った〈ローマを統一した大帝・コンスタンティヌスとキリスト教〉、〈そのコンスタンティヌスが遷都したビザンティウム(現・イスタンブール)の東ローマ帝国〉・・・・・ このことが何故か脳裏の片隅に引っ掛かっていたのですが、塩野七生著・「コンスタンティノープルの陥落」に出会ったことで益々トルコへの関心が高まったという次第です。
さて、昼過ぎに成田を発ったトルコ航空の旅客機〜〜 およそ11時間で(歴史的には)〈宗教〉や〈民族〉が激突した古都であり、(地理学的には)〈アジア〉と〈ヨーロッパ〉に跨った類稀なる都市―― イスタンブールに着きました。
これからの旅を任せるバスの車窓からも、そして最初の宿となった〈新市街地〉にあるホテルの
(11階の)窓からの(暮れなずむ空の下の)眺めも、やはりヨーロッパのそれとは趣が異なっていて、アジアとアラブが交じり合った〈荒っぽさ〉が漂っていました。
翌日の午前中は、イスタンブール・〈旧市街地〉にある幾つかの観光スポットを見学しましたが、その辺りはまた後日の見学予定に入っていますので、最後に纏めて紹介させてもらおうと思っています。
〜〜 といったような訳で、その日の午後、ぼくたちはフェリーに乗ってマルマラ海を渡り、エーゲ海に面したチャナッカレに一泊〜〜 翌日はギリシャ神話でお馴染みのトロイアの遺跡です。
ぼくの本棚には、新潮社の「ギリシャ神話」と、人文書院の「ギリシャ悲劇全集」の内の2冊、そして数冊のギリシャ神話の研究書があります。
映画をやるからにはギリシャ神話を齧っておかなければと勇んで購入した書籍なのですが、読んでみるとそのどれもがモタモタした流れになっていて退屈〜〜 まあそれなりに頑張ってみたのですがどうにも身が入らず、何時の間にか埃の中に埋まっていたという次第なのです。
(笑)
この旅で〈トロイア遺跡〉にも行くので何かないかなと〜〜 出発(の数日)前に本屋で文庫本を漁っていると、阿刀田 高・「ギリシャ神話を知っていますか」という文字が眼に飛び込んできました!
目次を見ると、そのトップバッターが「トロイアのカッサンドラ」〜〜 有難いことに、分かり易い文章で簡潔に纏められており、もしあの時にこういう入門書があったら・・・・・ と、心底思いました!
更に、旅から帰って読んだ同氏の「ホメロスを楽しむために」は最高〜〜 著者自身がギリシャやトルコに足を運んでゆかりの地を探訪しながら書いたエッセイで、何時の間にかぼくはのめり込んでいました・・・・・!(笑)
皆さんの中に、これから〈ギリシャ神話〉をやってみたいと思っている方がいらっしゃったら、先ずこの2冊を読んでから始められることをお薦めします。
また阿刀田氏には「新トロイア物語」というのがあることも分かりましたが、本屋で注文してみたところ、〈在庫ナシ〉ということで残念に思っています。
さて、その〈トロイア戦争〉の内容を掻い摘んで記すと、スパルタ(古代ギリシャの一都市国家)の王妃・ヘレネがトロイアの王子・パリスに誘拐されたのがことの始まり〜〜 そのヘレネを取り戻すために(ギリシャ諸国の盟主的な存在の)アガメムノンを総大将とするギリシャ軍が10年間にわたりトロイア城を包囲の後、アテネ女神が(ギリシャ軍の)知将・オデュッセウスに木馬の建造を吹き込み、その木馬に兵士を忍ばせてトロイアを壊滅したというもので、〈ギリシャ神話〉の中でも最も良く知られている話のひとつです。
ところが、この〈木馬の話〉はホメロスの唄「イリアス」には欠落していて、他の吟遊詩人たちが唄い上げたものから〈トロイアの木馬〉の伝説が伝わっているのだそうです。(しかし、もうひとつの唄・「オデュッセア」の中には〈木馬の話〉はあります)
古代ギリシャ最古の吟遊詩人・ホメロス(紀元前900年〜800年)の作った叙事詩には、「イリアス」と「オデュッセイア」があり、前者は〈トロイア戦争〉の10年間を歌い、後者はその〈トロイア戦争〉の勝者であった(ギリシャの武将)オデュッセウスが、トロイアからの帰国の途中で遭遇した10年にわたる海上漂流の冒険譚です。
〜〜 といったような訳で、〈トロイア戦争〉自体も〈伝説上の戦争〉と思うのが後生の人々にとっては至極当たり前の考え方だといえましょう。
ところが十九世紀になって、ドイツの片田舎の貧乏牧師の倅にハインリッヒ・シュリーマンという少年が現れ、彼は父から聞いたこの〈トロイア戦争〉を〈歴史上の戦争〉と頑なに信じながら成長したのです!
やがて運にも恵まれ商人として大成功したシュリーマン〜〜 が、突然41歳
(1863年)の時に商売から完全に身を引き、49歳になってその持てる財力を(少年時代からの)夢であった〈トロイア遺跡〉の発掘に注ぎ込むのでした―― !
彼は、「イリアス物語」の細部を思い起こしながらヒサルルク(ヒサルリク)の丘こそトロイア城のあった所だと結論を出し、作業開始〜〜 苦労の末、3年目にしてようやくそれらしい遺跡に辿り着いたのです!
更にシュリーマンの発掘は本格的に進められ、その結果最初の発見は所謂〈トロイア戦争〉のものではなかったことが判ります。
その後の度重なる調査でこのヒサルリクの丘には、第一市から第七市までの町が複雑な層を成していて、最初の発見は第二市の遺跡であり、〈トロイア戦争〉
(= 紀元前1250年頃といわれている)のそれは第六市だったということが判明されたのです。
ともあれ、少年時代の夢を信じ続けてたシュリーマンに、乾杯―― !
トロイアの木馬(勿論観光用に造られたもので、中にも入れます) トロイアの遺跡で・・ (考えていたよりずっと小規模な遺跡でした)

我らが夏の日の旅 〜 そのU エフェソスの遺跡 9.15
ぼくはTVドキュメンタリーを長くやっていたこともあり、また一時期 司馬遼太郎の世界に嵌っていたこともあって日本を中心とした極東の歴史については少しは知っているつもりですが、世界史となると高校の授業でぼんやりと聞いていただけ〜〜 特に地中海世界とその周辺のことなどについては極めて疎い存在でした。
しかし数年前から〈西洋美術〉に惹かれるようになり、昨年行ったイタリアでは〈ルネッサンス・アート〉に圧倒されました。そして、そのアート(&アーティスト)の背景となる民族、宗教、文化、政治、経済、軍事などへの関心も高まり、地中海へ、エーゲ海へとぼくの心が駆り立てられたという訳です。(笑)
さて、先号の〈トロイア〉でも触れた古代ギリシャ最古の吟遊詩人・ホメロス〜〜 その彼の生誕の地といわれているのが(ギリシャではなく)、エーゲ海に面したトルコ第三の大都市・イズミル(イズミール)〜〜 その後彼は、ギリシャ領のキオス島に移り、更にイオス島に移住してそこで生涯を終えたといわれています。
その大詩人の生誕地・イズミルの辺りは古くから開けた地域で、近くには〈エーゲ海の二つの薔薇〉と称される世界最大級の古代都市遺跡があります。
そのひとつがペルガモン王国の遺跡、残りのひとつがエフェソス遺跡〜〜 しかし、遺跡を2つ並べてみてもHPとしては余り面白い頁にはならないと思いますので、ここではその後者・エフェソスだけを取り上げることにします。
その古代都市・エフェソスの起源ですが、ギリシャの女性戦士で知られるあのアマゾネスによって建設されたという伝説も残っているそうですが、確かなところでは、紀元前1200年頃にイオニア人がギリシャから移住してその肥沃な土地と交易によって発展させ、やがて地中海世界で最も裕福な都市国家へと成長していったといわれているのです。
クレテス通り
左に見える石柱の外側には歩道があった
その歩道を彩る見事なタイル絵 仕切りのない公衆トイレ(= 勿論水洗トイレ)
1859年から始まり、数回にわたる大掛かりな発掘調査によって浮かび上がった古代都市国家・エフェソス〜〜 その黄金期は、ローマ帝国の支配下(紀元前133年)に入ってからで、ここでは数々の国際会議も開かれたそうです。
そこには大理石の大きな建築物が立ち並び、馬車が通ったであろう大通り
(= クレテス通り)〜〜 その通りの左脇には何と歩道もあって美しいタイルの文様と水鳥が描かれていました。
そして通りの右側〜〜 そこには紀元前二世紀に造られたという公衆浴場と、公衆トイレがありました。浴場は勿論のこと、トイレも当時は社交場で、用を足しながら大切な取引などの情報交換もしていたといわれています。
さて、辺りを睥睨するかのようにして建つ建築物が眼を惹きます。
それはアレキサンドリア、ベルガモンに次いで当時世界第三位の蔵書を誇っていたケルスス図書館〜〜 二世紀の中頃にこの地の知事を務めていた父
(ケルスス)を記念してその息子が建てたものだそうです。(実は、父の墓を造りその上に建造されている)
前門には英知、徳性、思慮、学術を表す女性像が配置されていて実に優美〜〜 言うまでもなく、ここはエフェソス遺跡のシンボル的な存在となっているのです。
図書館の柱や壁、石像も見事でしたが、その前の通りの名は何と大理石(マーブル)通り〜〜 文字通り大理石の太い柱が立ち並び、美しい大理石で舗装されていました。
その大理石通りの一隅で、不可解なマークを発見―― !
それは娼館への案内図だそうで、足型はその場所への方向と、この足型より小さい男
(= つまり子供)は駄目だったと、現地ガイド(= トルコ女性)は微笑みながら説明します。
ともあれ、娼婦というものは古代から存在しており、案内書にも「世界最古の職業」だとありました。
(笑)

ケルスス図書館の正面 大理石が圧倒する
マーブル通り
娼館への案内で〈最古の広告?〉
足型の上方には女性の絵が描かれている

現在とは違って、古代のエフェソスは海岸線が直ぐ近くまで迫っていて繁栄する〈港湾都市〉であり〈国際都市〉でもありました。当然多くの歴史上の人物もこの地に登場します。
先ずは東征のアレキサンダー大王〜〜 当時ペルシャの支配下にあったエフェソスを彼が開放し、その将官のひとりであったシマコスが(大王の死後)このエフェソスの発展に尽力しています。
またあの古代エジプト(プトレマイオス王朝)の女王・クレオパトラ〜〜 彼女も夫・アントニウスと連れ立ってきていたという資料も残っているようです。
更に時代は下り、キリスト教布教のためにやってきたのが聖パウロ〜〜 彼はこの地に三年間(65〜68年)おり、その間暴徒と化した民衆に襲われたり、投獄されたという記録も残っています。
一方、聖ヨハネも聖母マリアを伴ってやってきて、ここで福音書を著し、その最期もエフェソスだと考えられているそうです。
(附記:エフェソス遺跡からバスで30分ぐらい行ったところに、聖母マリアがヨハネと晩年を過ごしたという〈聖母マリアの家〉があります)
様々な歴史を秘めた都市国家・エフェソスの遺跡〜〜 下の二枚の写真は音楽堂と野外大劇場ですが、それらが造られた時代は、日本では弥生時代にあたりますので、当時の東西の人々の〈文化〉への拘りにはかなりの隔たりを感じさせられます。
その音楽堂の方は、(当時は)屋根があって吟唱や音楽祭などが開催されていたようです。あるいは後の吟遊詩人たちがホメロスの「イリアス」や「オデュッセイア」を吟じていたのかも知れません。
野外大劇場の方は、一世紀から二世紀にかけて
(ピオンの)丘の斜面に築かれたもので、何と最大収容人員 2万5千です!この壮大な劇場で、その昔どのような演劇が演じられたのかは(手元の資料にはそれに触れたものがなく)定かではありませんが、現在でも〈エフェソス・フェスティバル〉などで使われているようです。
1千4百人を収容できる音楽堂 (オデオン) 2万5千人も収容できる野外大劇場
古代には劇場の直ぐ近くまで海が迫っていたという

我らが夏の日の旅 〜 そのV パムッカレ=綿の城 〜 10.18
申し遅れましたが、
このツアーがどういうものかというと、一台の貸切バスに日本人観光客が十数名、それに添乗員と現地観光ガイド各一名を乗せて二人のドライバーが交替しながら前進、そしてまた前進〜〜 といったスタイルの旅なのです。
ほれほれ、今年パリーグを沸かせ、日本ハムを優勝に導いたあの伊達男・新庄剛志選手〜〜 その彼のCMでお馴染みのH.I.Sによるツアーで、付けられた名前が〈トルコ大満喫 10日間〉なのです。
さて、トルコ、トルコと申しましても些か広うござんす〜〜 国の西側はヨーロッパ、東側はアジアという位置にあって総面積は日本のざっと2倍〜〜 そのおよそ半分のエリアを、10日間でぐるりと一周しますので、単純計算ではざっと日本一周のバス旅行〜〜 ぞっとするほどの凄さでしょう!(笑)
エーゲ海に別れを告げる勝丸 バスは東へ、沿道には何処までも続くヒマワリの花
といったような訳でグズグズしてはおられません!
“葡萄酒色に輝く”と形容されるエーゲ海に別れを惜しみながら、バスは東へ、内陸部へと進み、次の目的地はパムッカレです。
それにしてもトルコには古代都市遺跡が沢山ありますね〜〜 ここバムッカレにもヒエラポリスの遺跡があり、その昔を今に語りかけてきます。
ペルガモンの王
(エウメネス2世)が紀元前190年の戦い(ローマvsセレウスコス朝)でローマ側につき、その戦勝功労ということでこの地を得て大きく発展させたということです。
ちなみにペルガモンは、前回取り上げたエフェソスと共に〈エーゲ海の二つの薔薇〉と称された古代都市のひとつです。
さてそのヒエラポリス〜〜 それは〈聖なる都市〉を意味し、有史以前からここは〈聖地〉でありました。
大地から湧き出す熱泉と
(有毒)ガスが先住民たちの信仰の対象となり、その東斜面にはえもいわれぬ神秘の世界が広がっていたのです。
およそ3キロメートルにも渡る大石灰棚〜〜 世界遺産 ・パムッカレです!
パムッカレとは〈綿の城〉〜〜 まさに白い綿を敷き詰めたような光景〜〜 !
地質学的には、この地域の温泉水には大量に炭酸カルシウムが含まれていて、それが水中の酸素と結合して沈殿〜〜 長い長い歳月を経るうちに凝縮して石灰棚を形成していったのだそうです。
石灰棚に遊ぶ観光客 日本の棚田を思わせる石灰棚
またこの辺りは古くから温泉地としても知られ、その効能は動脈硬化、神経症、リュウマチ、胃腸障害など〜〜 ローマ帝王も湯治に訪れているのです!
ぼくたちが宿泊したホテルにもプールとセットという形で大きな露天風呂がありました。
数十年ぶりにプールに入り、50メートルを一気に泳ぎましたが、やはり歳ですね、かなりばてました・・・・・!
(笑)
露天風呂も水着々用ですが、温泉好きなぼくにとってはとても有難く、旅の疲れが癒されました―― !
宿泊したホテルの プール 異様な形の露天風呂
偉大なるアタチュルクとのツーショット

ホテルのロビーにはトルコ共和国の初代大統領・ムスタファ・ケマルの大きな肖像写真がありました。
いや彼の肖像画や銅像などはトルコのいたるところにあって決して珍しくはありません。しかしそれもその筈〜〜 もし彼がいなかったらトルコという国は消滅したのではともいわれ〜〜 アタチュルク = トルコ
(共和国)の父として国民に敬愛されているのです。
第一次世界大戦でトルコ帝国はドイツ、オーストリア側に組して敗北〜〜 戦後は連合国側のイギリス、フランス、イタリアなどによって占領されました。
更に1919年には隣国のギリシャが〈コンスタンティノーブルの回復〉を目指して侵入〜〜 西アナトリアの大部分は占拠されましたが、この時、ムスタファ・ケマル将軍が人民軍を率いて反撃〜〜 遂に勝利を勝ち取りました!
1922年、ムスタファ・ケマルはそれまでのスルタン(王朝)制度を廃止して、翌年の10月にはトルコ共和国が成立〜〜 その大統領に彼が選出されたのです。
大統領になった彼は大胆な改革を次々と実行してゆきます。
それまで国教であったイスラム教を廃して政治と宗教を分離〜〜 そして
(イスラム国家では当たり前の)一夫多妻制の廃止、男女ともに教育の義務化、女性参政権の実現等々近代化に向けて枚挙に暇がないほどの改革を断行〜〜 彼が亡くなってもう70年近くなりますが、現在のトルコを語る時に、アタチュルクに触れない訳にはゆきません―― !

我らが夏の日の旅 〜 そのW カッパドキア=大自然の造形美 11.30
パムッカレを後に、我らのバスは東へ東へと驀進し、やがてトルコの古都・コンヤへ〜〜 ここはセルジュク・トルコの都があったところでもあり、古来交通の要衝の地〜〜 勿論、ヨーロッパとアジアを結んだあのシルクロードも通っていたのです!
そのコンヤで昼食を済ませ、歴史ある街道の上を更に東へ〜〜 と、おっと、と、と・・・・・ この(コンヤ)付近のシルクロードで、1ヶ月後には日本人観光客を載せたバスが横転〜〜 死傷者が出てニュースにもなりました!同じ会社のツアーだったんですよ !!!
まるで要塞のような隊商宿跡(キャラバンサライ) トルコの富士山とも呼ばれている エルジェス山
さて、シルクロードといえば赤い砂漠を行くキャラバンが脳裏に浮かんできます。
が、当時はそのキャラバンを襲う盗賊が出没していたから大変〜〜 そのことを今の世に語りかけてくるのがキャラバンサライ = 隊商宿です。
高く築かれた頑丈な石塀〜〜 要塞を髣髴とさせる建造物で、構内は広く、沢山の駱駝を安全に休息させるための大きな建物もありました。
かつてはシルクロードの沿道のあちこちで見られたという隊商宿〜〜 ガイド・ブックによると、今ではちゃんとした形で残っているものは少ないそうです。
車窓からの近景はヒマワリ畑から荒野へと移り、やがてその彼方に雄々しい山容の大きな山が現れました。
ガイドの話だと、トルコでも
(日本の)富士山は広く知られていて、この山・エルジェスは「トルコの富士山」と呼ばれ親しまれているのだそうです。
標高は、富士よりも高いエルジェス〜〜 実は世界遺産・カッパドキアの奇観を作り上げた、火山のひとつだったのです!
荒涼たる大地に何処までも続く奇岩・怪岩〜〜 大自然が長い歳月をかけて織り成したこのダイナミックなパノラマを、先ずは篤とご覧あれ――!
何処までも続く不可思議な大地 童話の世界へと誘う 〈妖精の煙突〉
風化が進んだ 〈茸岩〉の笠〜〜 やがては消滅の運命が こちらは有名な 〈駱駝岩〉〜〜 それにしてもお見事
世にも不思議なこの光景〜〜 その始まりは数百万年前まで遡ります。
先に紹介したエルジェス山と、ハサンと呼ばれている山とが大噴火〜〜 その膨大な量の火山灰が広い範囲の大地を覆い、やがてそれは冷えて固まり凝灰岩となりました。
そしてまた長い長い歳月の間にその凝灰岩は風雨に晒されて浸食〜〜 大自然が作った壮大なる造形の美となって、我々の前に展示されたのです〜〜!
やがて、この奇観の中で人々は営みを始めます。
民族や国家の変遷もあり、それに伴う文化や宗教などの歴史をそこに刻み付けながら、長い長い時間を経て、それらは丸ごと現代の産業=〈観光資源〉へと、見事に繋がってきました!
カッパドキアの摩訶不思議さは、地上だけではおさまらない
現在、何と36箇所もの〈地下都市〉が見つかっているのだ!
地下8階まである 〈カイマクル地下都市〉
まだこの〈地下都市〉の全容は掴かめていないようだが
〜〜 ともあれ凄い!
この岩山の付近には、幾つもの修道院や教会があった! ドームの天井に描かれていたのは、キリストの肖像
     夏は涼しく冬は暖かい洞窟〜〜 現在も様々な形で活かされていました!
先人たちの知恵が引き継がれた、快適な住居 この家の娘さんが作った〈お嫁入り道具〉の品々
一方こちらは、岩山を刳り貫いて造られた洞窟ホテル 鑿跡も鮮やかな内装〜〜 カッパドキアならではの 粋なルーム!
またここは、近くを流れるクズルウルマク川(赤い川という意味)の赤土を使った陶器でも知られています。
その歴史を遡ると紀元前〜〜 良い土に恵まれ、今もその伝統を受け継ぐ工房があちこちにあるということなので、予定外ではありましたが、バスをその中のひとつに着けてもらいました。
そこは、アナトリアの伝統土器と、オスマントルコの流れを受け継ぐという 〈チェチ陶器工房〉です。
お店と工房を兼ねたチェチ陶器工房 作品が生み出される工程を見られるので、見学者にも人気
その色彩と細かい作業が惹きつける大皿 な、な、何〜と、、、、、我が智女が、轆轤に挑戦 !!!
初めてだというのに 〜〜 お見事でした  !!!)))))

我らが夏の日の旅 〜 そのX イスタンブール=その歴史の輝き12.28
今度の旅で改めて感じたことは、思っていた以上にトルコの歴史は古く、且つ重要であったということ〜〜 特に紀元前2,000年から西暦1,500にかけてのトルコは世界の文化の中心で、その後にその舞台がヨーロッパへ移ったということなのです。
その古代史の核となったのがヒッタイト人〜〜 BC2,000頃やってきた集団(インド・ヨーロッパ語族の集団)が先住民の中へ入り込み、その文化を取り込みながら、やがて強大な国=〈ヒッタイト帝国〉を築き上げたということです。
その遺跡が残るハットゥシャシュや、その(ヒッタイト人の)聖地・ヤズルカヤを見学した後、トルコ第二の大都市であるアンカラへ〜〜 そこはトルコ共和国の誕生とともに生まれた近代の都です。
〜 そのV パムッカレ = 綿の城 〜 >でも触れた、アタテュルク(トルコの父という意味)=ムスタファ・ケマル(初代)大統領が、オスマン時代の旧弊を断ち切るためにあえて(栄光に彩られた)イスタンブールを排して、小アジア(= アナトリア)中央部の一地方都市に過ぎなかったここに遷都したのでした。
今度はのんびりと列車で〜〜 始発のアンカラ 駅 特急寝台列車の個室でイスタンブールへ
その新首都・アンカラから旧首都・イスタンブールへの旅は、〈特急寝台列車〉です。
これまでの移動が全てバスだったので、この個室寝台は快適〜〜 ぼくの好きなTV番組=「世界の車窓から」の映像を思い浮かべながら旅の情緒を楽しみました。
そして、およそ10時間〜〜 、
列車は、朝の光に満ち溢れたプラット・ホームに滑り込みますが、そこが何とウシュクダラ
(ユスキュダル)だったのです!
前にも触れたかと思いますが、ここイスタンブール市はボスフォラス海峡を挟んで西側がヨーロッパ、東側がアジアという類稀なる都市で、ウシュクダラはその〈アジア・サイド〉に位置しています。
それにしても懐かしい響きが包むこの〈ウシュクダラ〉〜〜 若い皆さんには分からないかも知れませんが、我々にとってこの地名には特別な思いがあるのです。
戦後暫く経った頃だと思いますが、
(誰が歌っていたかも忘れましたが)ラジオから「ウシュクダラ はるばる たずねてみたら〜〜 世にも不思議な・・・・・」といったエキゾチックな歌謡曲がよく流れていて、ぼくたちは遥かなるイスラム世界へ夢を馳せていたのです―― !(笑)
さて、今度の旅の契機となったのは、<bP46号>でも触れたように一冊の文庫本=塩野七生著・「コンスタンティノーブルの陥落」でした。
そのコンスタンティノーブルとは、西暦330年にローマ皇帝・コンスタンティヌスがそれまでビザンチュムと呼ばれギリシャの植民都市であった
(現在の)イスタンブールに遷都し、皇帝・コンスタンティヌスの都=コンスタンティノーブルとなったのです。
ともあれここは、そのビザンチン帝国(=東ローマ帝)の首都であり、海洋貿易の条件を満たした港湾都市として大きく発展〜〜 全盛期の六世紀から十世紀にかけては(郊外を含めると)人口は百万で、地中海沿岸における最大の都市だったのです。
イスタンブール市の略図 再度登場!塩野七生著「コンスタンティノーブルの陥落」
そのビザンチン帝国の首都として千百年余りの長きに渡ったコンスタンティノープルでしたが、1,453年5月29日〜〜 オスマン・トルコによって陥されたのです!
塩野氏のこの「コンスタンティノーブルの陥落」は、その戦いに何らかの形で関わった人たちが残した文献を基にして構成されている労作で、読む人の心を強く捉えます!
それでは、〈ビザンチン帝国〉と〈オスマン・トルコ〉について簡単に触れながら、ご一緒にこの〈歴史の街〉を巡ろうと思います。
13世紀末にオスマンを族長としたトルコ族の一派が小アジアの内陸部に結集し始めます。やがてそれが破竹の勢いで勢力を延ばし、あっという間に小アジア全域を席捲〜〜 1,369年にはヨーロッパ・サイドへ進出し、コンスタンティノープルの北西にあたるアドリーアーノポリというところにその首都を移し、スルタン(= イスラム王朝の君主)を名乗ります!
周りをオスマン・トルコに囲まれたビザンチン帝国〜〜 こうなるとスルタンの宮廷に年貢金を納めなければならなくなったり、またスルタンが遠征の際には皇帝ないしは皇族のひとりが兵をひいて従軍という義務まで課せられ、その属国化は進むいっぽうでした。
〜〜が、そんな百戦百勝のトルコ軍を待伏せしていたものがありました!
それは1,402年に起きたモンゴル軍とのアンカラでの戦い〜〜 彼らは非情軍団・モンゴルに完膚無きまでにたたきのめされたのです!
そのことは、ビザンチン帝国だけではなく、コンスタンティノープルを貿易の大切な基地としていた通商国家=ヴェネツィア共和国やジェノヴァ共和国などにとっても、大いなる救いとなったという訳です。
それからおよそ半世紀が過ぎた1,451年2月〜〜 父の死によって19歳に2ヶ月足らない青年がスルタンに即位します。少年時代にアレクサンドロス大王の生涯などに異常な関心をもって育った、マホメッド(=メフメット)二世です。
彼は父の代に結ばれていた不可侵条約を破ってコンスタンティノーブルへの攻撃を企てます―― !
迎え撃つビザンチン帝国の帝王は、偶然にも創立者と同じ名のコンスタンティヌス十一世〜〜 49歳の洗練された紳士だったと記されています。
もう一度〈イスタンブールの略図〉をご覧あれ、
ビザンチン帝国の最後の領域は〈旧市街地〉とあるところ〜〜 が、幸いなことにここは三方を海に囲まれた天然の要塞で、難攻不落ともいわれていました。
その海のひとつが〈マルマラ海〉〜〜 その南にはダーダネル海峡があって〈エーゲ海〉へと続き、更にその南には〈地中海〉が大きく広がっています。
一方、ボスフォラス海峡の北には何があるかというと〜〜 〈黒海〉で、その沿岸には豊かな穀倉地帯があります。
そこで、マホメッド二世がとった最初の作戦は、その〈黒海〉との唯一の貿易航路であるボスフォラス海峡に、〈要塞〉を構築することでした。
既に祖父の代に築かれていたアジア側の要塞の向かいに、彼は巨大な要塞・〈ルメーリ・ヒサーリ〉を築きました。そして両方の要塞には大砲〜〜 狙いは、行き交う船舶に通行料という名目で莫大な金額を要求することであり、もし停船命令に従わない場合は両岸の大砲が火を吹くという仕掛けです。
ボスフォラス海峡―― その一番狭いところに築かれた要塞 潮風に翩翻と翻るトルコ国旗
ヨーロッパ・サイドの要塞 〈ルメーリ・ヒサーリ〉 アジア・サイドの要塞 〈アナドール・ヒサーリ〉
そして、いよいよ決戦の時が来ました―― この戦いはまたキリスト教とイスラム教の〈宗教戦争〉でもあるのです!
しかしそのキリスト教も、第4回十字軍は(1,204年に)ここコンスタンティノーブルを占領し、およそ半世紀の間でしたが〈ラテン帝国〉を建国したこともあります。
同じキリスト教でもビザンチン帝国のそれは、〈宗教と政治〉との統一を守る〈ギリシャ正教会〉であり、カソリックの国々では、既に教会と国家を分離したことによって〈繁栄〉を得ていたので、その両者の間にはかなり隔たりが出来ていたのです。
そんなこともあって、皇帝・コンスタンティヌス十一世が(ヨーロッパの国々に)援軍を要請しても、結局はどの国も大軍を送ってはきません。しかし消極的な援軍であってもヴェネツィアを初めとす船舶は海戦に長けており、一時はトルコ海軍を蹴散らして大打撃を与えます!
また西側の内陸部に築かれた外城壁でも防衛軍は奮闘〜〜「アラーの他に神はなし― !」と唱えながら外壁を攀じ登ってくるトルコ兵を蹴落として頑張ります!
が、守るビザンチン帝国軍はたかが7千、スルタン・マホメッド二世は16万の大軍を投入して総攻撃をかけます!
凄まじい戦となりますが、多勢に無勢〜〜 やがて壊された城門からトルコ兵が雪崩を打って進入してきます!
もうこれまでと悟ったのだろう、ラストエンペラー
(= コンスタンティヌス十一世)は剣を抜き放つと、その姿を寄せ来る敵兵のなかに消してゆきました・・・・・!
ギリシャ正教の総本山であった 〈アヤソフィア聖堂〉
西暦360年に最初の聖堂が建てられたが焼失
現在の聖堂は537年にユスティアヌス帝によって建てられたもので
ビザンチン美術の最高傑作といわれれている建造物
高さが50メートルもある大聖堂――!
オスマンの征服によってモスクに変わり
宗教画のモザイクは漆喰で固められたが、現在は
基本的にはビザンチン時代のままで、天井には〈聖母子像〉
とても古いものとは思えない、キリストのモザイク 聖母子と二人の皇帝のモザイク
右はコンスタンティノーブルの町を捧げるコンスタンティヌス大帝
左は聖堂を捧げるユスティアヌス大帝 
東方キリスト教文明とイスラム文明の〈遭遇と激戦〉〜〜 、
その勝者は弱冠21歳のスルタン・マホメッド二世―― 彼は
(合理的な考えの持ち主で) 時をおかず、全ての教会をモスクに改造させ、トプカピ宮殿の建造を命じます。
勿論軍事にも俊敏な彼は、セルビア攻撃に成功すると、黒海南岸を制圧し、続いてエーゲ海から地中海へと進出〜〜 ローマ法王に眠れない夜を与えましたが、1,481年5月3日―― マホメッド二世は遠征先で49歳の生涯を閉じました。
が、トルコはその後も勢力は更に拡大〜〜 1,517年にはエジプトを征服し、地中海沿岸に三大陸(アジア、ヨーロッパ、アフリカ)にまたがる大帝国を構築し、ウイーンまで進撃して西ヨーロッパを震撼とさせました。
その〈威勢〉を示すかのようにして建つ、〈スルタン・アフメット一世ジャミィ〉〜〜 14代スルタン・アフメット一世が7年の歳月をかけて1,616年に完成させたモスク、観光客からはブルー・モスクの名で親しまれています。
スルタン・アフメット一世ジャミィ (ブルー・モスク) ドームの重なりが実に見事!
200を超える窓にはステンド・グラスが
刻々と変化する光が、幻想的であり、神秘的でもある
ブルー・モスクという通称は
壁に嵌め込まれた青緑を基調とするタイル装飾からきている
さて、現在のイスタンブールは一千万人を超える大都市ですが、治安が行き届いた美しい街です。
旧市街にあるグランド・バザールを覗くと、金銀、宝石などの装飾品、絨毯、陶器、布地、革製品などトルコ中のあらゆる産物を扱う店が犇めき合っていました。
現在は土産物の巨大な集合体ですが、その昔は東西交流によって生まれた富がイスタンブールの繁栄を支え、宝石などと同じように奴隷もここで取引されていたといいますから凄いです!
ガラタ橋を渡って〈新市街〉へ入り、急な坂道を暫くゆくと〈イスティクラル通り〉〜〜日本でいえば差し詰め銀座通りといったところでしょうか、ある種の気品が漂う繁華街です。
その表通りに一軒だけ大きな書店があって、そのショー・ウインドーにとても嬉しい本を見つけました―― !
それは黒澤 明監督の本でしたが、何故か右隣の「GEYSA NIN」という本も気になりますね・・・・・ !
(笑)
4千4百件軒が犇く、グランド・バザールの一角 眩い装飾品がどこまでも続くショー・ウインドー 
イスティクラル通りにある書店の前で 黒澤 明はやはり世界のクロサワ!
「七人の侍」は国境を越え、時間を超えて生きている!
5回にわたる連載に
お付き合い頂きまして誠に有難う御座いました!



Topへ戻る(s−3)