大天才=ガウディに会いに行って来ました!
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第1章 ≪プロローグ≫
4月の終わりから1週間余りスペインのカタルーニャ州へ行って来ました。

前衛映像作家の端くれとして、最も気になっていた大天才=アントニ・ガウディ〜〜その作品にじかに触れるのが今回の旅の目的でしたが、それにしては、ちょっと遅れを取った感もあり、訪問者の中には既に行かれた御仁もかなりおられるやも知れません..........。(笑)

その理由のひとつは、2005年のイタリア旅行〜〜実際に被害に遭った訳ではありませんが、ローマの地下鉄などで何度もスリに絡みつかれて不快千万でした:-!!!!!!!!!!
カタルーニャの州都・バルセロナも物騒なことに関してはローマと似たり寄ったりだと聞いていたので、つい延び延びになっていたのです。

しかし、彼の大天才の作品に触れることなくこの世を去るというのも残念至極〜〜意を決して出掛けたという次第ですが、実際のバルセロナは実に気持ちの良い街でした:-))))))))))

それもその筈、この国の資源は先人たちが残してくれた≪文化遺産≫であり、世界中から彼らの≪アート≫を鑑賞するために集まって来る観光客によってその経済は大きく支えられているのです。
ちなみに今web-siteで調べたところ、スペインの観光収入は世界第2位とありましたが、どうもアメリカ、フランス、イタリア辺りとトップの座を競っているようで、当然国家としても観光客に迷惑が掛からないように気を配っている筈です:-))))))))))

さて、妻と私はバルセロナの中心にあるカタルーニャ広場の近くのホテルに陣を張り、市内にあるピカソ美術館(かつてはスリの溜り場だったそうです)、ミロ美術館などを見学、更にバルセロナから電車で2時間半のフィゲラスにあるダリ美術館や中世の都市・ジローナなどにも足を伸ばしました。

しかし今回はガウディを中心に、モデルニスモ建築様式が花開いた19世紀末のバルセロナの素晴らしさを、数回にわたって紹介してゆきたいと思っております。

       
 建築家:アントニ・ガウディ ガウディデザインの手袋会社の
ガラス製ショーケース
 ガウディの初期の作品
レイアル広場にある街路灯
死の直前まで指揮を執っていた
サグラダ・ファミリアと小生

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第2章 ガウディとグエル 其のT−グエル公園≫

アントニ・ガウディは1878年に建築士の資格を取りましたが、先ず彼にスポット-ライトが当たったのは、パリ万博に出展する手袋店のショーケースのデザインでした:-!!!!!!!!!!
(※スペイン語ではアントニオですが、カタルーニャ語ではアントニです)

そのショーケースがたまたま繊維会社を経営する大富豪=エウセビ・グエルの目に留まったことによってガウディの運命は一変〜〜バルセロナの大空の下に建築家として大きく羽ばたいてゆくことになります-))))))))))

ガウディの才能に惚れ込んだグエルは、その後40年余りにわたって彼を支援し、グエル邸、グエル別邸、コロニア・グエル教会、そしてこの≪グエル公園≫などの建設を依頼しました。

バルセロナは当時工業化が進んでおり合理主義に向かってましたが、グエルとガウディは古代ギリシャの街=デルフォイに似ているこの山の手に、人々が自然と芸術に囲まれて暮らせる新しい庭園都市の建設を1900年に着手します。

   
 世界から集まった観光客で賑わうグエル公園
奥に見えるのが多柱式のホールで、その屋上が広場になっている
 神話に出てくるドラゴンと
奥にはオンパロス(=ギリシャ語でヘソ)が祀られている

さて、公園の中央には太陽神=アポロンの例祭が行われていた古代ギリシャの神殿づくりの多柱式ホールが見えますが、「構造は自然から学ばなければならない」とするガウディにとって、珍しく古典的な様式を用いた例だと言われています。
そしてそこにはそのギリシャ神話に登場したドラゴンが地下水の番人として、またその奥には
アポロン神殿の神託所にもある石のオンパロスが、不思議な形のオブジェの内側に祀られていました。

ガウディの建築法の特長は、曲線を多用し細部にきめ細やかな装飾を施していることです。
その多柱式ホール屋上の大テラスは野外劇の上演を想定して作られており、そのスペースの周りには滑々したタイルのベンチが、優雅な曲線を蛇行させながら取り囲んでいます:-))))))))))

使われた素材はタイルですが、割ったタイルの破片を再構成してゆくという斬新なアイディア〜〜ガウディが考案した技法のひとつですが、このベンチは彼の弟子のジュジュールが担当した傑作です!

丘の中腹には、傾いた支柱によって支えられた幾つもの不思議な回廊があり、こちらの素材は道路の掘削で出た砕石(=さいせき)をそのまま使っていてあのベンチとは対照的です!

ガウディが学んだ建築学校の校長は、「彼(=ガウディ)が狂人なのか天才なのかは分からない、時が明らかにするだろう」と言ったそうですが、彼の才能を信じてくれるパトロン=グエルとのコンビで、ガウディの天賦の才が大いに揮されてゆきます:-))))))))))

     
 公園中央部の大テラス  大テラスを囲む
曲がりくねった座り心地の良いベンチ
 傾いた円柱によって支えられた回廊と小生

しかし、この庭園都市の計画は失敗に終わりました:-!!!!!!!!!!

自然と芸術に囲まれたこの丘に60戸の住宅が建設される予定でしたが、買い手がつかず売れたのはたったの2軒でした。
その理由は、都心部から離れていたことが大きかったと思いますが、2人の進み過ぎた発想が、当時の人たちには理解されなかったのだろうと言われています。

そしてその売れた2軒の買主はと言えば、何とグエルとガウディ〜〜:-!!!!!!!!!!
ガウディはそこに父と暮す家を建て、父と姪と共にその家で暮らしましたが、現在は≪ガウディの家博物館≫となっています。
そして1922年にここはグエルの後継者によって市に寄贈され公園として生まれ変わり、1094年には≪世界遺産≫に登録されました。

   
 ガウディの家博物館 グエル公園とバルセロナの街
画面左奥にサグラダ・ファミリアがあり、海は勿論地中海

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第3章 ガウディとグエル 其のU−グエル邸他≫

ガウディのパトロンであったエウセビ・グエル〜〜彼は繊維会社の大社長の御曹司として1846年にバルセロナに生まれ、後にバルセロナ、フランス、イギリスで法学、経済学、応用化学を学んでいます。

一代で富を築き上げた父の後を継ぎ繊維会社を経営〜〜更に彼は銀行、鉱山会社、セメント会社などの経営にも手を広げ、スペインを代表する企業家のひとりとなり、やがて伯爵となりました。
(※ 右の写真はグエル伯爵)

一方ガウディは、1852年6月25日にカタルーニャ州のタナゴナ県に祖父の代から続く銅版器具職人の家に生まれています。
ちなみにその頃のわが国の元号は嘉永で、彼が満1歳になろうとする嘉永6年6月にはペリーが黒船4隻を率いて浦賀に来航〜〜上を下への大騒ぎになっていた頃です:-))))))))))

さて、ガウディは5人兄弟の末っ子として誕生しましたが、長男と次女が幼くして亡くなっているので実際には3人姉弟の末っ子として成長しました〜〜が、幼少の頃リュウマチに罹り、他の子どもたちと一緒に遊ぶことはなく、ひとりで動植物と親しみ、自然からいろいろなことを学びながら育ったと言われています。そしてそのことが後の彼の建築や芸術に大きな影響を与えることになります。

やがてガウディは開校したばかりのバルセロナ建築学校に入学しますが、アルバイト中心の生活を余儀なくされ、学業の成績はあまり芳しくなかったそうです。
けれども彼のアルバイトは建築関係の仕事でしたから、そこで実際の創作の喜びを知り、学校に行く時間があっても授業ではなく、もっぱら図書館に通っていたと言うことです。

ともあれ、生まれ育った環境が大きく異なるグエルとガウディ〜〜だが2人の間に生まれた友情と信頼は、ともに≪カタルーニャへの強い愛の絆≫によって結ばれていたのかも知れません。

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★グエル別邸(フィンカ・グエルの建物)
ガウディが最初に依頼を受けた大きな仕事はグエル別邸〜〜グエルが父から受継いでいた別荘のフランス式庭園を大幅に改築することでした。

       
守衛小屋と守衛の住居   入口門扉のドラゴン  オレンジの実  オレンジの木の右が 
厩舎と室内馬場

それは1884〜1887年にかけて行われた大規模な建設計画でしたが、現在残されているのは守衛小屋と、屋内にある厩舎、そして馬の運動場などです。

建物は基本素材としてはレンガを使い、そしてガウディはここで最初の試みとしてセラミック トレンカディス(=陶磁器の破片の再利用)を使用して、外壁を強化しています。

エキゾチックな美しさが表された守衛小屋と厩舎の建物〜〜その間には鍛鉄製(たんてつせい)の見事な門扉が配されています。
ガウディがデザインをし、バルセロナの工房バリェット・イ・ピケが作成したもので、当初は多色に塗られていて、仕掛けにより動いたそうです:-))))))))))

このドラゴンは、不死身の見張り番であると同時に、グエルが愛したギリシャ神話のなかに登場する怪獣であり、アンチモン製のオレンジの木や、鉄柵にある竪琴などとともに古代ギリシャ文学と建築の関係を色濃く表しているのだそうです。

ガウディは「建築家は、全ての職人の能力を知っていて、その長所を適材適所に活用せねばならない。もし作業中に困難が生じれば、それを解決する方法を見せねばならない。」と言っていますが、この門扉のドラゴンは、その彼の持論が見事に嵌ったようで大成功〜〜新聞でも大きく取上げられました。
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★グエル邸
別邸に引き続いて発注されたのがグエル邸で、1886〜1888年にかけて旧市街地に豪邸の建設が始まりました。


     
  観光客が並ぶグエル邸の表   カタルーニャの紋章  地階は厩舎
天井を支えるキノコ形の逞しい柱

旧市街地は道路が狭いせいか圧迫感を与えるグエル邸〜〜その表玄関には2つのアーチ型の門が並び、その鍛鉄製の門扉の間に、ガウディはカタルーニャの紋章を配しました。更にその上には生まれ変わりのシンボルである不死鳥をとまらせていて、カタルーニャの政治文化運動への意気込みを遺憾なく示しています:-!!!!!!!!!!

ガウディは後に度々≪カテナリーアーチ≫と呼ばれる技法を使っています。その原理は鎖の両端を持って垂らした時に出来る形で、彼は力学的にそれが最高の条件を満たすものだと考えていようです。
地下室のキノコ形の支柱も≪カテナリーアーチ≫のひとつだと思いますが、非常に力強く感じられます:-!!!!!!!!!!

このグエル邸の構造は、地下室は厩舎で、1階はレセプション、中2階は執務室、2階は共用スペース、3階は寝室、4階は屋根裏部屋と、様々な用途で作られた6層構造〜〜2階からの中央部は吹き抜けになっていて、ここは家族と暮す家と言うよりもグエルの宮殿(パレス)のような建物で、その後友人などを集めてコンサートや展示会などが開かれていました。
(グエルには父から受継いだ本邸があり、それとこの建物は廊下で繋がっていました)
     
 贅を尽くした素材が独特な形を描きだす  吹き抜けの周りには回廊があり
様々な部屋がそれを囲んでいる
 吹き抜けの見事な大天井
外からの採光が工夫されていた
ぼくはグエル邸の所々に昔の日本建築を感じましたが、建築評論家たちはイスラム建築の影響を感じると言っていました。
ともあれ、この頃の持てる力を全て吐き出した、ガウディの全力投球の建築だと思います:-))))))))))

尚、グエル邸は1984年に世界遺産に指定され、1996年にバルセロナ市の所有となり一般公開されています。

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第4章 ビセンス邸とモデルニスモのライバルたち≫

さて、皆さんもそうしているかと思いますが、今回ぼくたちも日本を出る前に≪ガイド付きバス・ツァー≫に申込んでいて、15人ほどの日本人観光客と一緒に小型バスで半日ほどかけて要所巡りをしました。
実物の前でガイドから説明を聞き、更に質問が出来ることによって本やTVなどから得た情報を確認することなども可能〜〜見学ポイントがあらかた整理されたところで、今度は単独でじっくり再訪問すると言う方法を取り、これがかなり有効だったと思いました。

さて、そのガイド・ツァーでも立ち寄ったビセンス邸〜〜ここはガウディが手がけた最初の主要作品で、タイルの製造業者のビセンス・ムンタネルから依頼を受け1883年から1888年にかけて建設、外壁などにタイルが沢山使われています。

そしてガウディ建築の特徴のひとつとなる鍛鉄製の動植物の彫刻たち〜〜 先ず、棕櫚(しゅろ)の葉がモチーフの鉄柵が目を引きますが、所々に蜥蜴や得体の知れない生き物が張り付いています。

ツァー・ガイドから聞いた話ですと、これらの動物たちの幾つかは、既に盗難に遭って失くなっているそうです。また先の「グエル別邸」で紹介した≪入口門扉のドラゴン≫も、鉄柵ごと盗まれるところだったそうで、油断は出来ません!

     
  ビセンス邸の全景  鍛鉄製の門扉とフェンス  こちらはドラゴンか?

ガウディは子供の頃から動植物を観察したりして自然から学ぶことが多く、後年「創造するのではない。人間が作り出すものは、すでに自然という偉大な書物に書かれている。人間はそれを読む努力をしなければならない」と言っており、この棕櫚の葉や動物たち、更に室内に展開する鳥たちの乱舞もまた自然界から学び取ったデザインなのかも知れません。

   
 鳥や草花で飾られた食堂
彼は壁画や家具調度類といった内部装飾も手掛け
建物のデザインをトータルで考えていた
  2階の騙し絵
外部と繋がっているような錯覚を生み出している
ビセンス邸は、夏の別荘として建設された地下1階、地上3階の一戸建て住宅〜〜世界遺産になってますが、現在この家は売りに出されていて、残念ながら内部は見学できませんでした。


★ さて、ガウディが活躍した19世紀末のバルセロナは、産業の発展とともに活気にあふれ、経済の発展とともにカタルーニャ文化の再生を目指すルネッサンス運動が起きました。それは「文芸復興運動カタルーニャ」と呼ばれ、若き日のピカソ、ダリ、ミロなどがその担い手でした。

そして、この地の民族主義的な伝統に対する高まりのなかで、モデルニスモ(=スペインのアールヌーヴォー)は独自の展開をみせ、そのモデルニスモと深く結びついたのが建築でした。
ガウディのほかには、ドメネク・イ・モンタネール、ブッチ・イ・カダファルクなどが輩出しており、彼らはカタルーニャの伝統に独自の様式を取り入れ、新しい時代を象徴する作品を次々と建てました。

特にモンタネールは、バルセロナの裕福な家に育ち、25歳で建築学校の教授となり、2歳年下のガウディを教えたこともある秀才型の建築家〜〜その代表作にはサン・パウ病院とカタルーニャ音楽堂があり、ともに1997年に世界遺産に登録されました。(右上の写真はモンタネール)


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モンタネールの“サン・パウ病院” 
ドメネク・イ・モンタネールの最大のプロジェクトは、パウ・ジルという銀行家の遺言に従って1902年に着工したサン・パウ病院で、彼は世界にある様々な病院をよく調べ、患者を建築の力で癒そうという結論に達して設計しています!


   
 2009年まで 病院として使用されていた
正面の建物 
   俯瞰の病院〜広い敷地に配置された沢山の病棟
     
建ち並ぶ優美な建築の病棟  地下にある廊下が
全病棟に繋がっている
 建築物の中のひとつが
この礼拝堂

先ず彼は、患者に圧迫感を与えないという観点から、広大な敷地内に病棟を分散してそれぞれが独立しているかのように間隔を保ちました。その開放的な空間を与えることで病棟を移動する時にも患者がゆっくりと外の空気を味わえるようにと考えたのです。

また、「芸術には人を癒す力がある」という彼の信念のもとに、いたるところにステンドグラスや花のタイル、彫刻などをあしらっています。

病院としての機能面も充実しており、片側をガラス貼りにして自然光だけで手術が出来る手術室や、病棟に無数の通気口を作り、院内に自然の風が通り抜けるようにしました。
なかでも、病棟間を地下通路で結ぶというアイデアは当時としては卓越しており、医師や患者たちが自由に行き来できるようにしました。

このサン・パう病院は1930年に完成し、2009年まで診療が行われていましたが、現在は病院としての役目を終え、修復工事中です。

★ 英語によるガイドツアーがあり、ぼくたちも敷地内や一部の病棟や礼拝堂などを見学しました!
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モンタネールの“カタルーニャ音楽堂
カタルーニャ・ルネッサンス(文芸復興運動)の指導的役割を果たしていたオルフェオ・カタラン合唱協会の本拠地として1905年〜1908にかけて建設された音楽堂〜〜装飾美を追求するモンタネールの最高傑作だとされる建築です。
(※ 右は、“カタルーニャ音楽堂”の表)

当時のバルセロナでは、モンタネールはガウディよりも名声が高く、この音楽堂はモデルニスモ建築のなかでも最も美しい作品と称えられてきました。
先ず、赤レンガ造りの建物の正面には、カラフルなモザイクタイルと様々な彫刻〜〜宵闇が迫ると、音楽堂は更に美しさを増します。

1階にある小ホールも魅力的ですが、圧巻は2階の大ホール〜〜ステージを囲むように、民族音楽と古典音楽を表したレリーフがあり、大きな窓からは優しい陽光が降り注ぎ、ステージの背景にある18体の女神像は楽器を奏でています。

   
 主にクラッシックのコンサートが開かれる大ホール  大ホールの天井には巨大なステンドグラスが!

天井を覆い尽くすタイルと彫刻、そしてその中央部には直径7メートルのステンドグラスが迫り出していて、光を浴びた花たちが美しく咲き誇り、音楽の殿堂に相応しい優雅な空間を生み出しています:-))))))))))

「花の建築家」と呼ばれ、ガウディとは異なる才能を発揮したドメネク・イ・モンタネール〜〜このカタルーニャ音楽堂には現在も毎年50万人の人々が、交響楽やジャズ、伝統音楽などを楽しむために訪れているそうです。

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第5章 ≪ガウディ円熟期の作品:バトリョ邸とミラ邸

ぼくたちが宿泊していたホテルの近くの“グラシア通り”には第4章”で紹介したモンタネールやカダファルクなどのモデルニスモ建築物が建ち並び、そこにガウディの傑作=バトリョ邸があります!
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バトリョ邸” 
大繊維業者のバトリョ・カサノバスの依頼を受け、ガウディは1904年〜1906年にかけて既に建てられていた邸宅の大改築を行いました。
この改造で彼は1階と2階を全面的に変え、更に5階と地下室を加えました。また階段や内壁を作り直してそこに曲線的なデザインを持込み、今までの建築様式を卓越した建築物として表現しました:-))))))))))

この大胆な建物に、当時のバルセロナ市民は“骨の家”とか“あくびの家”とか妙な名前で呼んで楽しんでいたそうですが、その奇抜な建築に惹かれて今も世界の各地から観光客が集まってきています:-))))))))))


   
 バトリョ邸の前に群がる世界各地からの観光客
 セラミックやガラス片で覆われて壁面
出窓は、仮面のようにも髑髏のようにも見える

ガウディは、従来のユークリッド幾何学に基づいたコンパスと三角定規を用いた設計図を飛び越えてきた建築家です。

彼の残した言葉の中に、「美しい形は構造的に安定している。構造は自然から学ばなければならない」とありますが、自然界にはほとんど存在しない“直線”を廃し、彼の“曲線”への拘りを見事に開花させたのがこのバトリョ邸だと言えましょう:-))))))))))

     
 “主階”へ続く階段〜その龍を思わせる手摺は
曲線を宙に描きながら天井を突き刺していた! 
  外から見た2階の“主階”フロア   “主階”フロアの内側〜 扉に配されたガラスの円盤
そのステンドグラスでフロアの光を調節
     
 暖炉の煙突はカタルーニャの
農家と同じように壁に嵌め込まれている
 
   天井全体が渦を巻く“主階”のサロン
それにしても大胆なデザインだ!
放物線アーチで仕切られた丸天井を持つ屋根裏
選択室などとして使われていた
 

さて、このバトリョ邸には様々な説があります。

その第1は、屋上の一部が丸く盛り上がっていてドラゴンの背中のようにも見えることからカタルーニャに残る“竜退治の伝説”をなぞっているという説です。

第2の解釈は“謝肉祭説”で、屋根を道化師の帽子に見立て、バルコニーの出窓を仮面、壁の色とりどりの砕いたセラミックやガラス片は祭りの花吹雪を表しているというものです。

他には、ガウディが自然光を効果的に取り込み、中庭に面した壁の色に濃淡をつけていることから、光と色の効果による“海底洞窟説”〜〜などもあります。
   
 屋上の龍の背中を思わせるオブジェ
煙突などをセラミックやガラス片などで美しく覆ってる
 夕暮れの空に浮かぶバトリョ邸
天才のその自信が迸った作品だ!
ともあれガウディの建築の魅力は、ダイナミックで様々なイメージを髣髴とさせながら、同時に細部への拘りが過剰ともいえるほどの表現力を持っていて、喜びを溢れさせているようなところです:-))))))))))

2005年にユネスコの世界遺産に登録されたバトリョ邸〜〜現在、2階の“主室”や屋根裏、屋上などが見学できます。
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ミラ邸”(別名=石切り場)

バトリョ邸から少し離れた同じグラシア通りに、実業家=ペレ・ミラ夫妻の邸宅を含む高級アパートを依頼され、ガウディは1906年〜1912年にかけてそのとてつもなく巨大な建物に取り組みました。

彼は9層にわたるフロアを様々な用途に合わせて設計〜〜地下室は自動車の駐車場で、当時それはバルセロナで最初の地下駐車場でした。

1階は商業施設、中2階は執務室、そしてミラ家の住居スペースである“主階”〜〜それより上に続くフロアは賃貸用で、屋根裏はバトリョ邸と同様に洗濯室でした。

そしてそれは“直線”をほとんど消した大胆な建造物〜〜自然石を積み上げた外壁はうねるような曲線を描いており、地中海をイメージしたとも言われています。

この建物の核は2つの大きな中庭
で、10分の1の模型をもとに現場で積み上げながら最終仕上げを施したという画期的な建築方法でした:-))))))))))

     
 ミラ邸の俯瞰〜吹き抜けが2箇所に見える    バルコニーの欄干に並んだ鍛鉄製の彫刻群  これらは、ガウディがデザインし
弟子のジュジュールが完成させた彫刻

けれども問題が無かった訳ではありません。
その外観から当時のバルセロナ市民は醜悪な建物とみなし、付けられた名前が“石切場”〜「グラシア通りの調和を損なう建物」として非難され、いろいろと物議を醸していたのです!

然しながらこのミラ邸は、通常の建築物というよりはむしろカタルーニャ人が誇りに思うべき偉大なる彫刻〜その圧倒的な芸術性で永遠の時間を獲得しており、今日のバルセロナを代表する歴史的建造物となっているのです:-))))))))))
1984年にユネスコの世界遺産に登録され、高級アパートとして現在も使用されていますが、入館料を支払えば内部の住居部分や、屋根裏にあるガウディに関する展示場や屋上の凄い風景を見学できます!

ガウディが創り出した空間の中で、最も非凡な空間とも言われ屋根裏スペース〜〜270のパラボラ状アーチによって仕切られており、このアーチは様々な高さで波打ち曲がりくねって連なり、その美しさと堅牢さとを誇らしげに見せ付けています!
科学者としてのガウディは、ゴシック建築に力学的な改良を積み重ねることによって現代に再生させようと、放物線アーチの荷重実験を熱心に行ってきました。その研究のひとつが展示されている「逆さ吊り実験の曲線」です。

そして、彼が師と仰ぐ自然界のコレクション〜〜そこには動植物から鉱物までありましたが、注目は右の写真=ミラ邸の構造模型で、大きな2つの中庭も見えます。


     
堅牢なパラボラ状アーチの屋根裏スペース  ガウディのフニクラと呼ばれる
「逆さ吊り実験の曲線」
 
 自然界からのコレクション
     
  中庭のひとつから見上げた風景   夕暮れの巨大な建築物〜ミラ邸 屋上からガウディのオブジェたちが
バルセロナを見守っている

さて、この世界に誇れるミラ邸ですが、残念なことに当時ガウディとミラ家の間に意見の不一致が生じたため完成を待たずに辞退、弟子たちによって完成されました。

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第6章 ≪ガウディ建築の真髄=コロニア・グエル教会

エウセビ・グエル伯爵は、バルセロナからおよそ20キロ西の町サンタ・コロマ・デ・セルベリョに、繊維工場で働く労働者の住宅団地を建築しましたが、その労働者のための教会の建築を1898年にガウディに依頼しています。

その頃のガウディは誰よりも独創的になろうと努力していた頃であり、後にグエル公園(1900年〜1914年)の中核部、バトリョ邸1904年〜1906年)、ミラ邸1906年〜1910年などの個性溢れる強烈な作品を次々と発表〜〜それをバルセロナの新聞などが大きく取り上げて支援し、彼を前代未聞の極に向かわせていました!

特にガウディが執着していたのが≪フニクラ≫と呼ばれる逆さ吊りの力学〜〜彼はおよそ10年の歳月を費やしてその実験を重ねていました。
それは独自の建築力学への挑戦であり、「複数の紐で錘を支える時の紐が作る曲線〜〜その天地を逆さにすれば建築物を支える最も単純で堅固な柱となる」筈だというものでした:-)))))))))
(★右はコロニア・グエル教会のフニクラの模型)

1908年、遂にガウディはその≪フニクラ≫を具現化する最初の作品としてグエル教会の建築に着手します!
初めの計画では、上部身廊と下部身廊からなる二身廊で、礼拝堂、側面の数々の塔、そして中央部には高さ40メートルの塔を備えるという壮大なものでした。
(★身廊(しんろう)とは、教会堂の入口から祭壇にかけての中央部分をいう)

     
   静かな郊外に建てられた
未完成のコロニア・グエル教会
 不揃いな形の田舎風大窓たちと小生   松林と溶け合った
傾いた石柱たちの林
     
 石とレンガとセラミックの
絶妙なバランス
 地下礼拝堂内部の
天井と壁のモザイク
 窓が蝶の羽のように開く
ステンドクラス
 

外観は、自然豊かな郊外の景観に合わせて、ガウディは玄武岩とレンガで構成〜〜傾いた柱の森の柱廊(ちゅうろう)が地下礼拝堂へと続きます。

     
 飾り気のない玄武岩の柱が
多角形アーチの天井を支える
見事に計算された
天井とキリスト像
 
地下礼拝堂の全景
ガウディ独自の力学が生み出した、柱と天井の見事な関連

しかし、この地下礼拝堂を建てただけで、1914年にガウディはこのコロニア・グエル教会の指揮から手を引きました。
あの≪フニクラ≫と呼ばれる逆さ吊りの力学を駆使した、地上部の建築を誰もが熱望したことでしょうが、建設資金の欠乏という問題などもあったといわれ、また彼もサグラダ・ファミリア教会の建設に全力を注がなければなりません!

その後の工事は、他の建築家の手により1917年までゆっくりしたペースで進められましたが、その間に第一次大戦によって一時期続行が困難になり、更に1918年には施主のグエル伯爵が病死したこともあって終了しました。

結局は、未完成に終わったこのコロニア・グエル教会〜〜にもかかわらず、ここをガウディの最高傑作として位置づける専門家も少なからずおります。
彼の数々の革新的な試みを総合的に実践した作品であり、更にそれがサグラダ・ファミリア教会の建築に引き継がれているからだと思います:-))))))))))
なお、コロニア・グエル教会は1984年に世界遺産に登録されています。

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第7章 ≪ガウディの魂の建築物=サグラダ・ファミリア聖堂

最終章は、建築家=アントニ・ガウディの名を世界に知らしめたサグラダ・ファミリア聖堂〜〜ご承知のようにその建設は彼の死後も弟子たちに受継がれ、更に彼の精神に魅せられた後世の建築家たち(日本人の石工・外尾悦郎氏もそのひとり)によって今も続いております!

さて、このサグラダ・ファミリア聖堂建設の依頼主のマリア・ボカベーリャは、宗教書の出版を専門にする書店主で、キリストの養父=聖ホセ(ヨセフ)に信仰を捧げる“聖ホセ信仰協会”の推進者でした。
そしてその頃、スペインにも襲ってきた“自由主義”の嵐〜〜その危機感から、彼は信者の集まる場所としての聖堂をと考えフランシスコ・ビジャールという建築家にその建設を依頼し、1882年に工事が始まります。
しかし、意見の対立からビジャールは翌年には辞任〜〜その後を引き継ぐ形で任命されたのが、当時まだ無名だったアントニ・ガウディ〜〜建築家として脚光を浴びるあの「グエル邸」の着工の3年も前のことだったのです!
師匠筋にあたる建築家の推薦があったとはいえ、まだ建築家としての実力は不明の青年に聖堂建築の依頼が転がり込んできたのは、不思議といえば不思議です:-?!?!?!

更に釈然としないのは、当時の彼は敬虔なクリスチャンではなく、かなり奔放な生活を送っていたと資料にはあります。そして一方の依頼主=ボカベーリャは、こちこちのカトリック教徒でした!
この相反する2人の性格〜〜後の逸話にはボカベーリャが啓示を受け、その時の神の言葉は「この教会の建築家は青い目をしていなければならない」というもので、青い目のガウディが“聖ホセ信仰協会”の理事たちの前に現れた時点で決定したのだそうです:-))))))))))

その真偽はさて置き、ガウディは前任者の設計を一から練り直し、1885年にはサグラダ・ファミリアの最初の全体設計図を完成させました。
以後、幾度となく設計を前進させながら、同時進行していたグエル公園、バトリョ邸、ミラ邸、そしてコロニア・グエル教会などでの建設で試みた全ての独創的な技術をこの聖堂に注ぎ込み、世界でも類のない“完璧な教会”の建設を目指してゆきました:-))))))))))
(★右上は最初のサグラダ・ファミリアの全体設計図)

   
 朝日が昇る東側から見たサグラダ・ファミリアの全景
正面が“生誕のファサード”
3つのファサードのうち、唯一ガウディの生前に完成した“ファサード”
3つの門のうち、中央がキリストを表す「愛徳の門」
右側が聖母マリアに捧げられた「信仰の門」
左側が聖ヨセフを体現する「希望の門」

1892年に“生誕のファザード”の建築工事が始められ、キリストの誕生から、キリストが初めての説教を行うまでの逸話が石の彫刻によって表現されており、「石でできた聖書」ともいわれています。

     
4本の“使徒の鐘楼”
永遠を象徴する“生命の木”
その下には“聖母マリアの戴冠”
 
 1899年に設置された「トランペットを吹く天使たち」    誕生のファサードの彫刻群
産湯につかるキリストと、聖母マリア、聖ヨセフ

さて、このサグラダ・ファミリア聖堂ですが、これは国家や富豪によって建設されるものではありません。
前述したように民間の小さなカソリック団体にすぎない<サン・ホセ教会>によるものですので、財源不足は常に付き纏っていて大きな建設中断の危機が3度もありました!

最初のそれは、地下礼拝堂の建設が終わった後の1888年〜89年で、莫大な赤字を抱えた為に実際に工事は中断されましたが、その頃のガウディの名声はまだ確立されておらず、聖堂の芸術的価値も認められていない時期でしたので、全てが暗黙のうちに処理されたそうです。

それから数年が経った1894年の四旬節〜〜ガウディに大きな転機が訪れ、大変に厳しい断食に入ります:-!!!!!!!!!!
生死の境を彷徨ったあげく、親交の深い神父などの説得により2週間で断食を終了しましたが、これを機にそれまでの派手な生活に終止符が打たれ、以後彼の精神は純粋に研ぎ澄まされ、全てを仕事と信仰に捧げてゆくようになりました:-))))))))))
第2回目の危機は1903〜06年にやってきました。その頃のガウディの評価は、「不思議で、奇妙で、突飛で、幻想的で、狂気沙汰」から、「強力な想像力の持ち主、芸術思想の革新者、極めて個性的で独創的な建築家」へと変わりつつある時期でしたが、遂に財源は底をつきました!

その時、当時の偉大なる詩人=ホアン・マラガールによって全カタルーニャ人を諌め諭す激文=「ご慈愛のお恵みを!」が「日刊バルセロナ」に掲載され、それによって寄付金が集まり、何とか危機を脱することが出来ました:-))))))))))

その言葉の中には「聖堂を作っている男(=ガウディ)が、それを作りながらわれわれ(=カタルーニャ人)自身を作っている」とあり、また「なぜアントニ・ガウディは、日中町に出て、片手に帽子を差し伸べ、すべての人々に聖堂へのお布施を声高く請わないのか。」とガウディに向けても激を飛ばし、「狂気の沙汰が度をませばますほど、聖堂はさらに高く、さらに大きくひとりでに立ち上がって行くと思う.....」と綴っています!
(★右の写真は、詩人のホアン・マラガール)

そして第3回目にやってきた危機は、1912年〜17年まで続きました。
この頃になるとサグラダ・ファミリア聖堂は国家的モニュメントになっていましたが、著名人がいくら訴えても寄付金は集まらず、赤字は解消するどころか増大する一方でした.....!

1914年、ガウディ 62歳のこの時に、遂に決定された建設中断〜〜!
しかし、もしそうなれば熟練した職人を失うことに繋がるので、彼としては何としても中断は食い止めたい〜〜その為に、自ら見知らぬ家々を廻って、聖堂建築の献金を請うようになります:-!!!!!!!!!!

あのマラガールの激は、寓話ではなくなり、現実の問題とならざるをえませんでした!
そのガウディの戸別訪問が功を奏し、建設中断の実行は一週間延ばし、また一週間延ばしとなりました!
彼のその狂気をも感じさせる姿に、先ず建築学部の学生たちが募金活動に立ち上がりました。そしてあらゆる学部の学生たちもそれに続き、ガウディのその情熱はカタルーニャ全体へと広がりを見せて遂に中断は回避されたのでした:-))))))))))
さて
ガウディは1925年に
グエル公園の自宅から寝泊りの場を聖堂の作業場に移しました。
そして3つのファサードのうち
彼の生前に完成させたのが“生誕のファサード”!

そして
その年の11月30日
最初の鐘楼が完成した時、喜びのあまり
ガウディは
「天と地をつなぐあの槍のようだ!」と
叫んだそうです:-))))))))))

そして
そして
翌26年6月7日
路面電車にはねられ
3日後の10日に
天才=アントニ・ガウディは73歳と11ヶ月半の生命を閉じました:-!!!!!!!!!

ちなみにその年
日本では大正天皇が12月25日に崩御〜〜元号は昭和と改められます。

     
 最後となる「石膏模型」
サグラダ・ファミリアの身廊と屋根の最終案
  ガウディの生前に公表された最後の「全体構造図 」  ガウディの死後、彼の残した図面から起こされた
「平面図最終案」
 

ガウディは、実際の10分の1と、25分の1の「石膏模型」を1923年に作っています。また1925年には「全体構造図」が公表されています。
ガウディの死後、彼が遺していった図面から起こした「平面最終案」が1929年に初公開〜〜今日、これらに従って建設が続行されています!

     
 樹木のような円柱と中央身廊のドーム     祭壇の傘の下には
クルスのキリスト
 
   この大聖堂は2010年に完成
そして、その11月には:-!!!!!!!!!!

2010年11月7日〜〜この大聖堂に神父や司教ら6500人が参列したなかで、ローマ法王ベネディクト16世がサグラダ・ファミリアを正式な教会として認定する“聖別のミサ”を行いました:-!!!!!!!!!!
800人の聖歌隊の歌声が響き渡るなか、法王が聖堂に聖水を注ぎ、着工から128年目にして法王庁が認定する上位の教会=「パシリカ」となりました:-))))))))))
     
  この爬虫類はイグアナか?  こちらは想像上の植物か?    ともあれ、ゆっくりと、着実に、
完成に向かって建築は進められてゆく

     
 ここにも頭上に4本鐘楼を持った
 “受難のファサード”
 
  聖女・ヴェロニカのベールに写し出された
キリストの顔
視覚効果で、常に見学者を見詰めている
 石で書かれた聖書は
ゴルゴダの丘で十字架に架けられたキリストへと展開する


太陽が沈む西側には“受難のファサード”があり、キリストの死がテーマになっています。

ガウディは受難の苦しみを表現しようと考えていたそうですが、その彼の死後28年が経って、カタルーニャ人の彫刻家=スピラックスがボランティアで製作開始〜〜一切の装飾を排除したその作風で、最後の晩餐からイエスの磔刑、昇天までを、左下から≪S≫の字を逆になぞるような形で綴っていきました:-))))))))))S

そして南側にこれから造られる“栄光のファサード”〜〜メイン・ファサードとしてサグラダ・ファミリアの最も重要な部分になる予定だそうです。
 
  “栄光のファサード”が建設さる南側〜〜その位置から見た、中央身廊と聖歌隊席
この上にも4本の鐘楼が建ち
合計12本の鐘塔からの鐘の音が、バルセロナに空の下に広がるのだ:-))))))))))

かなり時間をかけて
「大天才=ガウディに会いに行ってきました:-))))))))))」を
綴ってきましたが
これをひとつの資料として
「ぼくの座右の銘と、ガウディの作品たち」
を、このHPで纏めようと思っております:-))))))))))

またのご訪問をお待ちしてます!
有難うございました。


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