「この人を見よ!」 〜 目次 〜
城之内元晴さん (映像作家) 2001.8
5 渡辺文樹さん (映画監督) 2001.1
4 大和屋竺さん (映画監督・脚本家・俳優) 2000.
3 望月六郎さん (映画監督) 2000.
2 中村信昭さん (福岡のシネクラブ・極狂遊民カチカチ山 2000.
1 青原慧水さん (ドキュメンタリー演出家・IF10期生) 2000.2
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 城之内元晴さん(映像作家)

初夏に「アンダーグラウンド・アーカイブス」がシネマ・下北沢で上映されましたが、更に充実したプログラムとなってこの秋に、神戸、京都、大阪であの60〜70年代の若者たちの作品が大公開となります。

この大イベントの最大の収穫は、何といっても城之内元晴を特集し、彼のアート魂をこの21世紀に甦らせようとする企てです。

城之内(以後はジョー)は、日大芸術学部で1年先輩の平野克己神原寛谷山(現在は浩郎たちと日大映研を創設し、『釘と靴下の対話』(’58)、『Nの記録』(’59)、『プープー』(’60)作品の主軸となって活躍――全国学生映研のリーダー的存在のひとりとなりました。

更にこの時期、ジョーと神原は荻窪にVAN映画科学研究所を設立しますが、そこには前衛アートを志す、ミュージシャン、画家、詩人たちも屯するようになり、ジョーもあらゆるアートの境界線を超えた、彼独自の世界を構築していきます。

彼の映像の特徴はボレックスによるコマ撮りやカメラ内編集――今この技法は実験映像作家たち間で盛んに使われていますが、ジョーは40年も前からやっており、正に実験映像の先駆者――実験映像や映像パフォーマンスを語る時、彼の存在をないがしろにしたら罰があたります。

その作品としては、
60年安保反対闘争を彼流に記録した
『ドキュメント・6.15』(’61)、自らがLSDの体験者となる『ドキュメント・LSD』(’62)、赤瀬川原平などのネオ・ダダのパフォーマンスを記録した『ハイレッド・センター・シェルタープラン』(’64)、ドイツの非具象画家・ヴォルスの絵を接写でコマ撮りして構成した『WOLS』(’65)、土方巽の舞台をこれまたコマ撮りで撮影した『土方巽』(’67)、そして代表作『新宿ステーション』(’74)などがあります。

これらのことには、河出書房新社からこの度出版された「アンダーグラウンド・フィルム・アーカイブス」(\2000)で多くの人が触れておりますし、また作品の方も9月から関西の三都で上映されますのでそれをご覧頂くことにして、ここではジョーとぼくとの関係を記そうと思います。

ぼくも日大芸術学部の出身で、前出の平野克己たちとは同学年――他に同級生の幾人かを挙げると、後年にっかつロマンポルノの監督として名を馳せる加藤 彰『襟裳岬』でアジア映画祭グランプリ)、松竹・青春映画の監督として一時代を画した山根成之『さらば夏の光よ』でブルー・リボン監督賞)、そしてぼくと同じ技術コースにいた八木信忠――彼は研究室に残り、やがて芸術学部の学部長から全学の副総長にまで駆け上っています。何せ映画界の絶頂期の入学ですから、智者、識者から、猛者、曲者(笑い)まで――多士済々だったという訳です。

さて、1年後輩のジョーとは学生時代には面識はありませんでしたが、後で考えると、『Nの記録』の編集室を覗いた時にそこにいたのが彼と松本勲(後に大映の助監督=論客)だった思います。
また
ルイス・ブニュエル『忘れられた人々』をゲテモノ小屋で見付け、大学で上映したのもジョーたちだったと後で本人から聞きましたから、そのあたりでも会っていたのかも知れません。

その日大映研のことですが、後年「金井さんは何故映研に入らなかったのか?」とよく訊かれました。しかし当時は映画産業に勢いがあって実験性に富んだ意欲作が邦画五社の中でも作られており、何も学生映画に参加しなくても――という考えがあったのだと思います。
特に大映では
市川 崑増村保造が輝いていた時期だったし、’59年(ぼくたちが4年生の時)には外部からの監督――アラン・レネ『24時間の情事』を撮り、小津安二郎『浮草』を作っています。

翌年、ぼくはその大映東京撮影所の技術部撮影課に入り、『24時間の情事』の撮影監督・高橋通夫や、市川・増村とコンビを組む小林節雄に師事しました。
しかし、詰まるところ「商業映画は観客の数」――その減少に伴って段々と作品の質も低下してゆき、こちらの心も萎えてゆきます。
そんな時、『24時間の情事』のチーフ助監督を務めた
白井更生から、飛び出して独立プロを作ろうというお声が掛かって、’69年の暮れに退社しました。
その独立プロ〈新制作集団〉での制作準備中に助監督の面接にきたジョーとチョッと話を交わしましたが、それが彼との正式な出会いです。が、どういう事情かは知りませんが、ジョーはその作品・
『ヒロシマ1966』には関わることはありませんでした。

二度目にジョーと会ったのは、ぼくが処女作『無人列島』(’69)を監督し、その試写に彼が現れた時で、その後は新宿の飲み屋・エスカールなどで顔を合わせることが多くなって、意気投合――そんなある日、彼はぼくに神奈川ニュースに入れてくれといいます。

その頃のぼくは、
『無人列島』のカメラマン・
鈴木正美の誘いで、自主上映を終えると彼が勤務する神奈川ニュース映画協会にいきカメラマンをしておりました。何故カメラかというと、映画の資金を稼ぐには演出よりカメラの方が何かと有利だったからです。

当時の協会には野田真吉長野千秋などといった記録映画の錚々たる演出家がきており、活気が溢れていました。
時の制作部長は
吉田和雄――彼には神奈川ニュースの名を世に知らしめようという野心があり、野田や長野を引っ張り出したのも彼でした。
ぼくはまだジョーの作品を殆んど観てはおりませんでしたが、「ジョーは天才ですから――!」と吹き込むと、その「天才」が功を奏したのでしょう、部長は満面に笑みを浮かべて快諾してくれました。

神奈川ニュースでのジョーは、その大らかな性格と大胆な発想でスタッフの信頼を得、短篇映画やTV番組で大車輪――文字どおりエースのジョーとなりました。
彼の短篇の代表作は
『老人』(’72)ですが、TV番組でもその本領は遺憾なく発揮され、県警の全面協力を得て横須賀線爆破事件を扱ったかと思うと、次の町村シリーズ・葉山町では、葉山は御用邸を撮らないと始まらないと、スタッフのビビリ顔を尻目に単身裏門をこじ開けて侵入――サブ・カメラのボレックスで邸内を撮影しています。
この尋常ならざる神経は、『ドキュメント・6.15』などを作っていたVAN時代から築き上げてきたその精神構造にあるのだと思います。

そのTV番組では、ジョー自身が度々出演し、ナレーションもよく自分で読んでいました。
その風貌といい、張りのある声といい頗る魅力的だったので、ぼくの第3作
『王国』では編集者の役で出演して貰っております。
特に八王子駅の通路を、人の流れに逆らって登場するシーンは秀逸――鳥博士を絶妙に演じてくれた
大和屋竺とともに、その内面から滲み出た存在感に圧倒されました。

さて、そのジョーの実験的個人映像の方ですが、映画としての完成作品だけではなく、パフォーマンスのための素材として撮ったものもかなりあります。
代表作のひとつである『新宿ステーション』も、ぼくが最初に観たのはそのパフォーマンスで、’74年10月、新宿にあったマッド・グロッソという所でした。

その時のジョーの出立ちは真っ白なサファリルック――彼はその肩章(エポーレット)のループに懐中電灯を捻じ込み、ぼくに向って「じゃ、チョッとやってきますよ」といって立ち上がったかと思うと、「ステーション、ステーション〜〜」と叫びながらスクリーンに向って歩きだしました。

肩章の懐中電灯で創作ノートを照らし、’68年10月の機動隊と学生たちの激突する新宿の映像を全身で浴びながら、詩の朗読――フォルテッシモの美声が会場に響き渡ります!

「地下に降りる新宿ステーション 甲州路へのアジテーション あきれたカフェのアクション エスカレーション アスピリン あんど ピテカントロプスよ 毎日のシンジュクよ 泣き男のステーション ステーションはレインゴーと咆哮して 道だよ 老子だよ 非常識だよ どこといつとぬかすなよ 二日酔いのクレージージョーよ バカめ サンピンローハイドだよ ステーション新宿だよ ステーション ステーション ステーション ステーション ステーション ステーション 〜〜」
(「新宿ステーション」の導入部 ・再録は河村 孝 写真は映画・『新宿ステーション』)

この時のジョーの迫力には、心底から仰天させられました!
ジョーの手に掛かると、政治闘争であろうが、変質者の爆破事件であろうが、絵画や舞踏であろうが、なんでもかんでもが全て彼流のアートと化し、ぼくらはその才能に、ただただ脱帽するしかありません!
その年の暮に映画作品としての『新宿ステーション』が完成しますが、やはりジョーは天性の映像詩人であり、類稀なるパフォーマーだと思いました。

一方こちらは、自主映画の制作・上映と神奈川ニュースを行き来していましたが、広島テレビの仕事などを経た後の’79年の夏に、ジョーと同じ番組のレギュラー・ディレクターとして神奈川ニュースの契約者となります。
ジョーとは普段は親友、仕事ではライバル同士の関係となりましたが、ともに齢(よわい)50――かのブニュエルが『忘れられた人々』を撮った歳になったのです。

この頃はジョーもぼくも自作からは離れておりましたので、「結」のような助け合いで夫々の映画を作ろうと誓い合って、その皮切りとして’86年の初秋にぼくの『夢走る』(’87)を撮影――映像の詩歌集をと考えた、その短歌篇でした。

勿論、主役を演じたのはジョーでしたが、その年の暮れに彼は交通事故に遭って、忽然と黄泉の国へ旅立ってしまいます。
ジョーとの誓いを反古には出来ませんので、この詩歌集も構成を変え、ジョーとの共同作品のつもりで、詩篇・
『ジョーの詩が聴える』(’89)を撮りました。
そして、その短歌篇、俳句篇、詩篇と、ジョーと縁のある地2景を幕間として加えて、
歌・句・詩シネマ『時が乱吹く』(’91)が完成――中野武蔵野ホールのレイト・ショーで一般公開となりました。

ジョーの実験映像の公開も、
日大映研時代からの友人である神原や平野などの尽力により、’87年に浅草で追悼上映会がもたれ、またぼくのセレクションによる「ラジカル映画特集」で’90年の暮れに武蔵野ホールで上映しました。
そして今年はシネマ・下北沢での「アンダーグラウンド・アーカイブス」――これでぼくも彼の全作品を観たことになりますが、改めてジョーは、稀代の映像作家だと思いました。
(敬称略)


 渡辺文樹さん (映画監督)

昨年の暮に、ぼくが住む高幡不動の電柱には『腹腹時計』のポスターが何処までも続いておりました。上映場所は日野市の文化ホールで、自転車で行けば30分ほどのところなので是非観ておきたいと思いましたが、上映は一日だけ――生憎その日は予定があり、残念ながら「見送り」となりました。

それから数日が過ぎた頃、何と渡辺監督から電話がかかってきました。
「12月21日に府中で上映会がありますが、実はそのことよりも来年撮る新作のカメラをやって貰いたい――」のだと彼は言います。
確かにぼくは大映の撮影部出身で、フリーランスのカメラマンをしていたこともありましたが、彼が拘る35mmカメラには30年余りも触れてないので無理だと答え――ともあれ府中上映会で会うことにしました。

渡辺シネマのホームグラウンドは福島です。
彼はそこで’71年〜’81年までに8mmや16mmで12本の映画を作っていますが、ぼくが最初に観た作品は35mmの
『島国根性』(’90)でした。
作品そのものもそうですが上映もまた一風変わっていて、観客参加激論会”真剣勝負”――土着侍=渡辺文樹vs江戸侍二十八人衆と銘打って大森キネカで公開――ぼくはその二十八人衆の一人として呼ばれ、作品を観た後のデスカッションに参加しております。(右の写真は、『島国根性』の頃の渡辺監督)

後日、自宅に『家庭教師』(’87)のVTRが送られてきましたが、両作品の共通点は、隠蔽されたムラ社会の表層を強烈に引掻き、その深層を白日の下に晒そうと企んでいることです。それにしても彼の自己顕示欲のすさまじさには驚かされました。
その「タブー破りと自己顕示欲」は彼の本然の性――福島大学の学園祭で発表された
『父母の一日』(’72)には、両親のセックスの盗み撮りが入っていたそうだから只者ではありません。

その作風を更に進化させたのは『ザザンボ』(’92)からだと思いますが(残念ながらこの作品は見逃しております)、’96年公開の『罵詈雑言』を観た時に、表現方法の独創性とその過激さにショックを受けました。
福島県で起きた青年の死亡事件――その青年は女教師の(汲み取り便所の)肥壷の中で死んでいたのですが、覗きに入っての事故死として片付けられていたこの事件を、渡辺監督は原発事故隠しのために殺されたと云う自説を展開して、リンチに遭った青年を汲み取り口から押し込むシーンを再現させております。(なにせ本物の便所を使ってのロケでしたので、あの役者は凄い!)
また利権をめぐる争いや癒着問題などを絡めて警察署や市長宅などに押しかけ、真相究明に向けてラジカルに追及してゆくのです。

一方その頃、マスメディアでは薬害エイズの責任問題がクローズアップされていました。
関係者ののらりくらりの対応に、またうやむやにされてしまうのではと国民は憤っておりましたが、やがて当時厚生大臣であった菅直人氏が土下座をして謝罪――有史以来初めての大臣の土下座で彼の人気が上がりましたが、与党でも自民党ではなかったから出来た「潔さ」だったと思います。
またそこには、菅氏自身は『罵詈雑言』を観ていないと思いますが、全ての隠蔽を許さない渡辺監督の視線が新しい世相の下地を作っており、その影響もあったのではないかと考えられます。

さて、『腹腹時計』――、
府中文化センターにゆくと、受付には相変らずエネルギッシュな貌の渡辺監督、隣にいたのは若き女性で、二人は「試写のつもりで観て下さい」と入場料を受取ってくれません。
それでは上映後に飯でも食べようと言うことにして会場に入ると、40〜50人の観客がおりました。

映画はテロリストと公安、更にKCIA(韓国情報局)が絡んで激しい銃撃戦から始まりました。
’74年に東アジア反日武装戦線’狼’によって三菱本社が爆破されましたが、このテロリストたちはその’狼’の同調者――’狼’の背後には韓国の当時の朴軍事政権が絡んでいたと云うことで構成された作品です。
(写真は府中大国魂神社脇に貼られた『腹腹時計』のポスター)

逮捕を免れた男女二人のテロリスト(男は例によって渡辺文樹、女は永井リエコ)は、やがてニトログリセリンの大量製造に成功します。
彼らは、昭和天皇が新婚時代に過ごした福島県下の天鏡閣にお忍びでくる情報を入手し、その列車にニトログリセリンを積んだ電車を衝突させると云う暗殺計画を企んでいたのです。

標準語と福島弁と韓国語が飛び交い、更に英語字幕入りと云う何とも不可思議な映画でしたが、圧巻は私鉄電車を借り切ってのロケで、車両から車両へと駆け巡る渡辺文樹――運転手を縛り上げ、支線から本線をゆく天皇の列車に衝突させる為に死に物狂いです。
結局この企ては失敗に終わるのですが、驚くべきは電車を使ってのその過激なロケーション――よくここまで撮影できたかと舌を巻きました。

上映が終わった後、街道沿いにあるステーキ・ハウスに入って三人で食事をしながらいろいろと話を聴きました。
彼は、プロジュウサーでもあった奥さんと離婚――今は若い彼女、そして二頭の犬と一緒にワゴン車で全国を回って上映活動を行っているのだそうです。
「東京は駄目ですね、正確に言うと東は利根川、西は箱根より向こうでないと――東京の観客の目はみな死んでいる!」と言います。
また、「二人でポスターを貼るのだが直ぐに剥がされてしまうのが頭痛の種、それでも一週間剥がされなければ占めたもので、地方では大入り間違いなし」だそうです。

渡辺監督は確かに過激です。
しかし、永田町や霞ヶ関は民意を無視し、いらぬダムを建設し、無駄な河口堰を造り、大切な干潟を埋め立てて、挙句の果てが世界最大の赤字国――様々な不祥事は常連である政治家はもとより法曹界まで広がっており、賄賂、癒着などで泥まみれの日本列島なのです。
彼はこんな出鱈目な社会を許す訳にはいかないと、毒には「毒を以って制する」やり方で自分の意思を貫いているのです。
それには映画が一番の武器だと彼は言いますが、多分日本の映画監督の中で最も自分に忠実に生きている監督だと思います。

渡辺監督の言葉は、角度を変えたところでもぼくを驚かせます。
「若い頃に金井さんのお宅に伺って映画を観せて貰いましたが、憶えていますか?」と訊かれたのです。
彼のような個性的な人物の来宅を忘れるわけはない筈ですが、どうしても思い出せません。観た作品は
『ジョーの詩が聴える』だそうだから、多分’89年頃のことだと思いますが――!?
それはゆっくり思い出すことにして、ともあれここはぼくが払わねばと財布を出しましたが、時既に遅く、彼の彼女が支払った後でした――。

家の近くまで送って貰い、走り去るワゴンを見送っていると、渡辺監督と彼女が何故かあの『奥の細道』の芭蕉と曾良に重なってきました。
自分の生き方を貫き、旅を栖(すみか)にする大いなる監督――新作を期待しております!

 


   4 大和屋 竺さん (監督・脚本家・俳優)

1993年1月16日に大和屋竺さんは食道癌で亡くなり、その翌年にワイズ出版から「悪魔に委ねよ」という恐るべき題名の大和屋竺映画論集が出版されました。

その帯に、若松孝二監督が「(前略)これは、突出した才能を持ちながら、日本の表舞台で脚光を浴びることのなかった男のクロニクルである。彼はこの書によって、死して正当に評価されることになるだろう。」と記しておりますが、その予言どおり、いま大和屋さんの魂は若い人たちの間にもじわじわと浸透しつつあります。

ぼくが最初に「大和屋竺」の名前を知ったのは、彼の処女作『裏切りの季節』(’66)を取り上げた佐藤重臣編集長の「映画評論」であったと思います。
丁度その年、ぼくは白井更生監督の
『ヒロシマ1966』という映画のキャメラマンをしてる最中で、その白井さんを中心にして書かれた脚本に、ベトナム戦争従軍写真家を主人公にした『私は撃てない』というオリジナルシナリオがありました。

『裏切りの季節』もベトナム戦争従軍写真家が主人公だと知って気になり、見にいったというわけでしたが、その作風の違いに驚嘆しました。
大和屋さんは日活の助監督時代に体を壊して休暇を取り、その休職中に東京農大の探検隊に加わってボルネオなどを回っていますが、その旅で得たものは大きく、この作品を撮る時には「日本人をやめ、アジア人として撮ろう」と思ったそうですので、違う筈です。

その大和屋さんがぼくの目の前に現れるのは’69年の秋だったと思います。「鈴木清順共闘会議」に出席したその帰りに、偶然に清順さんや大和屋さんと水道橋駅のプラットホームで一緒になりました。
ぼくは処女作
『無人列島』をその年の春に完成させていたのですが、その映画の助監督だった宮田雪さんが清順さんたちのグループとも関わりを持っていたので、彼に紹介されたというわけです。

二度目に大和屋さんと出会ったのは京王線の最終電車――本を読んでいると「金井さんじゃないですか」と声をかけられます。
大和屋さんの住まいも高幡不動と知って驚きましたが、もしそうでなければ、あるいはその後の付き合いはうすかったと思います。

’70年の晩秋にまた電車の中で一緒になり、今度は「韓国にロケーションにいくそうですね?」と訊かれました。
その時には既に
『GOOD−BYE』の韓国ロケは終わっていて、編集中――もういってきたと答えると、彼は信じがたいといった表情をつくりました。が、当時の韓国は戒厳令下にあったのでその驚き貌も当然だったのかも知れません。

翌年のゴールデンウイークにその『GOOD−BYE』(併映『無人列島』)を新宿の蠍座で公開しますが、試写を見て気に入ったといってくれましたのでチラシの推薦文を書いて貰ったりして、二人の間は急接近――ぼくの家は駅の北側で大和屋邸は南側ですが、自転車で5分ほどの距離ですので度々ゆくようになりました。

彼は稀にみる博学多才な人で、映画、音楽、美術、文学などに精通――専門の監督や脚本はもとより、小説を書き、俳優として、映画主題歌の歌手としても活躍しております。
これらはみな少年時代からの基礎がしっかりしていて、楽器もオルガンやトランペットを嗜み、絵も得意で中学生の頃に映画館の看板を描いていたほどの腕前です。

また当時〈大和屋ダンディズム〉という活字がよく映画雑誌の見出しに躍っておりましたが、彼の映画同様に、その独特なマスクとスマートな身のこなし、なかでも背筋をピンと伸ばしたその歩き方が魅力的で、内奥から滲み出す奥の深いダンディズムに嫉妬さえ覚えました。

そんな彼のキャラクターを目の確かな監督が見逃しておく筈はありません。
役者としては、
『殺しの烙印』(鈴木清順監督’67)、『処女ゲバゲバ』(若松孝二監督’69)、『叛女・夢幻地獄』(足立正生監督’70)、『悲愁物語』(鈴木清順監督’77)、『ドグラマグラ』(松本俊夫監督’88)などの映画や、『木乃伊の恋』(鈴木清順監督’73)、『ぬるぬる燗燗』(西山洋一演出’92)などのテレビ作品にも出演しております。

左の写真は、ぼくの第三作『王国』(’73)のスチールですが、彼をイメージキャスティングにした鳥博士――溢れ出る知性のなかに狂気が潜み、その惚れ惚れとする名演技は当時話題をさらいました。(右はむささび童子)

さて、彼の映画の監督作品は、先の『裏切りの季節』と、『荒野のダッチワイフ』(’67)、『毛の生えた拳銃』(’68)、『愛欲の罠』(’73)、『発見への旅立ち』(’74)の5本だけです。
その5本もみな低予算の作品で、彼ほどの人が何故と、不思議な気が致します。
叡子夫人にいわせれば「自分から売り込むなんてしない人だから、誰かが持ってきてくれるのをやってたわけよね。要は怠け者なのよ〜〜」だそうですが、やはり魑魅魍魎が棲む映画界においては「高貴」すぎた人だったのかも知れません。

大和屋さんの念願の企画であった『星女郎』(泉鏡花原作)は遂に映画化されませんでしたが、もし出来ていたなら邦画界の様子も変わっていた筈で、彼の計り知れない才能を知る者にとっては口惜しい限りです。
しかし、映画論集やシナリオ集が出版され、いま
非和解検査氏のような若い人たちが大和屋研究に情熱を傾けています。
メジャーエンターテイメント時代に話題をさらった数多の作品は風化してしまいましたが、売込みをせず、自分の生き方を貫いた大和屋竺さんは、死して益々重要な映画人になってゆきます。

※ 今回は大和屋竺さんとぼくとの関係が中心なってしまいましたので、何時か続編を書こうと思っております。


3 望月六郎さん (映画監督)

映画青年なら望月六郎監督を知らない者は少ないと思います。
原田芳雄主演の
『鬼火』で、1997年度キネマ旬報監督賞などを受賞、海外でも既に高い評価を得ています。

ですからこの「連載〜そこにこの人あり〜」というのはちょっと変で、「〜ここにこの人がいた〜」の方が合っているのかもし知れません。そう、これから書こうとしているのは、彼と出会った20年ほど前の話なのです。

ともあれ望月さん(当時彼は六と呼んで下さいといってましたので、以後は六とします)は、慶応大学時代に演劇にのめり込み、特に唐 十郎率いる状況劇場には足繁く通っていたようです。

その六の映像初体験は、大学を中退しアルバイトを転々とした後に入ったIF付属映像研究所――81年の春のことです。
屈託のない青年だったので彼は直ぐにクラスの人気者、5期生の中心的存在となります。

同期には、映像作家の坂本崇子(彼女は5期6期と来て、後の6期で開花)や、後にぼくの『時が乱吹く』で飛脚を演じてくれた高橋孝英、協力者の河村 孝、岡田秀彦、木村敏明がおり、そして現在TVドキュメンタリーで活躍中の演出家・竹林紀雄などがいました。

彼らが作った作品の中で頭抜けて良かったのが、理学博士の肩書きを持つ岡田の『FRAME(フレーム)』――この作品はスリットを使った特殊撮影がキーになっていて、特に同一画面上に江ノ島の朝から晩までを左から右へと映し出したラストシーンには驚かされました。
さてこのページの主人公・六の卒制は、あぁなさけなや、ブーツを履いた怪しげな女と、蝋燭の赤い炎しかぼくの脳裏には残っておりません……!

卒業後も新宿のゴールデン街でよく六とは顔を合わせました。
その頃ぼくに暗黒舞踏の白虎社から前衛的な劇映画の依頼がありました。インドにロケーションが可能、英語が話せる助監督が必要――何気なくそんな話をすると、彼は「ぼく英語が話せます、使って下さい!」といいます。
しかしこう云う話は流れることが多いから、とお茶を濁しておいたのが良かった、案の定流れてしまったからです。

不思議なもので次もインド行き――TVのドキュメンタリー番組でジャイナ教を取材する話が舞い込んできました。
六は「それではその助監督に――!」とやる気満々でしたが、その企画もまたまた流れてしまいました。

一方こちらの私生活ですが、結婚には失敗したももの、妻子と別れて数年が経っており、やっと寡夫ぐらしの良さを味わえるようになってきた頃でした。
2つのインド行きはダメでしたが、TVドキュメンタリー番組のレギュラー・ディレクターをしていたので気楽なものでした。

そんなある日、六が突然やって来て「インドに行けると思ってバイトを辞めてしまいました。行けないなら書生にして下さい!」と恐い目をしていいます。
書生とは恐れ入ったが、後には退かんという意気込みだし、こちらにも責任がないでもないので――先ず飯が作れるかと訊いてみました。すると急に彼の目の色が和らいで「料理は得意中の得意です!」といいます。
それにしても書生とは……彼なりの練った作戦でしょうが、まぁ結局それで彼の居候が決まったというわけです。

その居候の件でこちらが出した条件は、彼が炊事係ということだけ、その上小遣い付です。
しかし無駄飯を食わせておくわけにもいかないので、君は卒制の出来からしてアートは無理だ、商業映画へ進め、映画で飯を食うのならシナリオが書けないとダメ、先ず脚本を書け、良いのが書けるようになったら、いろんな監督を知っているから紹介してやる、というようなことをいったと思います。すると彼はしてやったりと、満面に笑みをたたえました。

六はシナリオを書くのは初めてなので、大映時代の脚本などを読ませた後、基本的な技術を教えます。
呑み込みの早い彼は、習作としてペラ105枚のオリジナルを3〜4日で書き上げました。最初なので、ト書きも台詞もぎこちないところもありましたが、ライターとしての筋はよさそうなのでこちらも久し振りに血が沸きます。

炊事係としての六の腕もなかなかのものでした。
食事は色で食わせる――が彼の口癖で、茹で上がった(ほうれん草などの)葉物の美しい緑、人参の赤、庭に自生するミツバや、(庭木の山椒の)木の芽などを形良く添えて出します。
特に美味しかったのは、牛肉をとろけるまで煮込んだシチュウ――やはり裏庭にある月桂樹の葉を摘んで入れてくれるので、この家の主としてのぼくには一層美味しく感じられました。

しかし、流石の彼もオリジナルを7本、8本と書く内に、映画化の予定がないシナリオ作りに心が萎えてしまったようで、ボルテージの低い脚本が出来ました。
こちらもTVの仕事で疲れていたせいでしょう、読み進むうちに段々と腹が立ってきて、「こんなもの書かせる為にタダ飯を食わせてるんじゃない!」と、ひどく叱った覚えがあります。

翌朝、ロケの為に早起きすると、彼は徹夜でぼくの起きるのを待っていて「次の作品の構想が出来ました!」と、昨夜とは打って変わった元気な声を響かせます。こう云うところが六の凄いところです。
場所は漁村、白痴の少女が主人公で、魚との情欲をシュールな感じで描きたい――彼の上気したその時の顔が今でも浮かんできます。
タイトルは忘れましたが、シナリオも見事な出来栄えとなりました。

82年の秋から翌年の春まで我が家の居候であった六――この間に書いたシナリオは10本ほどだったと思いますが、その内の1本が中村幻児監督の目にとまって63年に映画化されています。タイトルは『少女縄人形』です。

彼はその中村組の助監督を振り出しに、成人映画やアダルトビデオなどの脚本や演出をしていましたが、91年に自叙伝的な作品『スキンレスナイト』を自主制作し、内外の注目を浴びます。
そして、奥田瑛二主演の
『極道記者』(93)からブレークしていったことは、既に皆さんご承知の通りです。

同じ映像制作者でも、目指す世界が違うとなかなか会う機会がありません。が、4年ほど前に若松孝二監督の還暦パーティがあって、茶髪の六と久し振りに会いました。
すると、「おう!金井じゃないの――!」という声と一緒に背中をたたく者がいます。
振り向くと、唐 十郎氏で「いま望月と仕事を一緒にやってるんだ。休憩時間に2人でお前の話をしてるんだよ」と嬉しそうな顔でいいます。

『新・極道記者/逃げ馬伝説』で、六は学生時代からの憧れの人に、「よーい、スタート!」をかけたんだ――これで居候時代に食わせた飯も無駄飯ではなかったと、何故かその時そう思いました。

かわなか のぶひろさんから聞いた話だと、
望月六郎監督は「スターが1番くみたがっている監督」だそうです。

望月六郎よ、
  ぼくの周りにも君のファンは多い。
    人に好かれながら、己を貫け!
! 

(写真は、
キネ旬監督賞などの受賞と、2度目の夫人・克美さんの入籍を祝う会でのものです)

Webで見ッケ! 


  2 中村信昭さん 福岡のシネクラブ・極狂遊民カチカチ山

作り手にとって、観て貰える機会を作ってくれる人たちには、ただただ感謝あるのみです。

これまでぼくがお世話になってきたシネクラブが福岡には2つあって、その1つが[FMF(フィルム・メーカーズ・フィールド)]――昨年の秋のシネマテークで『王国』『聖なる劇場』を上映して頂き、福岡に招かれて行ってきましたが、なんとそれが丁度百回目の上映会〜〜 だそうですから、驚きです!

その時に映写を手伝っていたのがこのページの主人公・中村信昭さんで、もう1つのシネクラブ・[極狂遊民カチカチ山]の主宰者です。

ぼくの《上映リスト》にもあるように、中村さんとの付き合いは1978年の秋からで、10数年前に1度高幡不動の拙宅にも来てくれています。
相変わらず下駄履きに長髪とサングラス――懐かしい再会でした。

さて、これを書くに為に送ってもらった資料によると、「見たい映画はてめえでやる!」と宣言して’78年にシネクラブを始めたということです。

第1回目の上映は、島田開;脚本、松尾正武;監督の『ゆめの予定』だったそうですが、監督の松尾さんは東映京都撮影所のテレビプロの監督〜〜 。
脚本の島田さんはぼくもよく知っている人で、
『無人列島』『GOOD−BYE』の京都上映では大変にお世話になっており、(その時に)三隅研次監督や撮影監督の宮川一夫さんを誘ってくれたのも島田さんでした。当時の島田さんは大映京都撮影所の助監督で、同時に京都にあったシネクラブ=〔シ・ド・フ〕の中心メンバーの1人だったのです。

その島田さんを通して[カチカチ山]で上映された『家なき子』という作品は、京都在住の医師が個人的に制作した教育映画だそうです。ぼくもそのような教育映画の存在は全く知りませんでしたが、「ろくでもない雑誌には一切記録されてないものです!」と資料にありました。

以後中村さんは、アンダーグラウンド・シネマから教育映画まで、様々な作品を上映してきましたが’89年、詩人の福間健二監督の処女作;
『青春伝説序論』の上映会をもってシネクラブ活動を休止し、《イントン生活に》入ります。
隠遁生活といえば聞こえが悪くはないですが〜〜 実は大変に落ち込んでいた時期で、その頃ぼくから1〜2度電話をしたことがありましたが、こちらまで鬱病になりそうなので、正直なところちょっと避けておりました。
(笑)

’99年に彼はようやくその隠遁生活から甦って活動再開〜〜 昨年の秋には[FMF]で上映されなかった(ぼくの)残りの作品を全部上映してくれました。
[カチカチ山]でのぼくの映画を
(作品別に)列記しますと、『無人列島』は’78年・’87年・’99年の3回、『GOOD−BYE』は’78年・’89年・’99年の3回、『王国』は’79年の1回、『夢走る』は’87年・89年の2回、『一本勝負のキリギリス』は’89年の1回、『時が乱吹く』は’91年(この時はFMFと合同で)と’99年の2回となります。
これほどまでに繰り返して何度も上映してくれたところは、ぼくの作品の場合には他にはありません〜〜 心底から感謝!

その[カチカチ山]には、もう1つの活動があります〜〜!
自費による映画雑誌『鷽
(ウソ)』の発行です。
「メジャーの映画雑誌を読む気がしないので、これも読みたいものはてめえで作ろうと思いました」と、彼から貰った資料にはありました!

それは、’84年の創刊号より和文タイプを自分で打って、ほぼ定期的に発行〜〜 左の写真でも分るかと思いますが、号を重ねる度に分厚くなってゆきます〜〜!

常連の執筆者には、東映京都撮影所の深尾道典さん(大島渚監督作品『絞死刑』など脚本多数)や、詩人の福間健二さんと奥さんの恵子さん、脚本の他に小説も手掛けだした今子正義さん(元・大映東京撮影所助監督)、自主制作で『相模幻野考』を監督したライトマン・桑名平治さん、舞台俳優の岡田 潔さんなどで、ぼくは書いたり書かなかったりでしたが、彼は何らかの形で(例えばぼくの古いシナリオを載せるとかして)毎号参加させてくれていました!また他に、ぼくの映画に関する冊子を2度にわたって作って頂いております。

最新号の『鷽』19号は、「イントン」の長いトンネルを抜けつつあった’98年に復刊され、特集として「金井勝 監督・結婚・『聖なる劇場』完成記念」となっており、吃驚しました〜〜!!!!!

現在は瀬々敬久監督作品を連続上映しており、3月6日のシネマテークは『瀬々敬久劇場第九弾』――監督も呼んで<ライブ上映>だったそうです。
その案内状には「尚 人品卑しき人間の入場は固くお断りします!」と記されておりました。

[極狂遊民カチカチ山]―― その名前からして風変わりなシネ・クラブですが、自分の生き方を何処までも貫く中村さんは、なぜか孤高の剣客のように、ぼくの眼には映ります。


  1 青原 慧水(= 青原さとし)さん (IF10期・ドキュメンタリー演出家)

青原 慧水さんから葉書を貰いました。
差出人の名前の脇には、「イメージ・フォーラム第10期生・寺の息子」と記されています。

そのイメージフォーラム付属研究所とは、個人映画・実験映画の作家養成所で、かわなか のぶひろさんや鈴木 志郎康さんたちと一緒に専任講師を務め、既に四半世紀を迎えようとしています。

受講生には、大学生、サラリーマン、フリーターなど様々――変わったところでは魚河岸で働く青年や、文芸雑誌の編集者、大手の重役さんなどもおります。その中でたしか2人、寺の息子さんがいたことを思い出しました。

彼の卒制のタイトルは『そらごと、たわごと』――寺での様子が描かれていたような気が致します。
同期には
『すみつぐのつぐ』(IFFグランプリ)の野上純嗣さんや、『連続四辺形』(IFF入賞)の原田一平さんなどがおり、彼らの作品はよく憶えておりますが、残念ながら青原さんのはぼんやりとしか浮かんできません。(申し訳ありません)

さてその葉書ですが、それはNHK教育テレビで、1月24日から3日間連続で放送された、ETV特集『日本・定点の記録40年』の案内でした。
卒業後彼は、姫田忠義さんが所長を務める「民族文化映像研究所」に入って記録映像の仕事に携わっていたのだそうです。

第1回は
『焼畑に生きる村―高知県椿山』
第2回は
『海が生んだ家族・寝屋子―三重県答志島』
第3回は
『山に生かされた人々―越後奥三面』です。

日本の僻地とも言えるこの3ヶ所を定点として定め、そこに生きる人々の生活などを40年間にわたって撮り続けたことに、先ず脱帽しました。(姫田所長は凄い!)
勿論、青原さんが生まれた頃から撮りだしている作品ばかりですから、彼の演出ではありません。助監督として、制作主任として駆け回っていたのだと思います。

この3作の内、青原さんが編集を担当した『海が生んだ家族・寝屋子(ねやこ)』は、僕が余り知らなかった漁村の慣習などを扱った作品でしたので、特に印象に残りました。

伊勢湾に浮かんだ小さな島・答志島(とうしじま)は、戸数50、人口1500人余りの漁村で、そこには「寝屋子(ねやこ)」がいまも行われておりました。

「寝屋子」とは、中学を卒業したばかりの男子(みな高校生なので現在は土曜と日曜の夜だけ)が、寝屋親(ねやおや)と呼ばれる家で共同生活をする伝統的な若者宿です。

10人ほどの寝屋子は、そこで漁業の技術や知識、人間としての生き方などを教えられます。
高校を卒業すると本格的な寝屋子生活が待っています。
毎朝それぞれの母親が息子を起こしにきて1日が始まり、昼間は実家の仕事である漁に出ます。日が暮れると夕飯を済ませてからやってきて、様々なことをここで学んでゆくのです。

この「寝屋子」が現在10組ある答志―漁業は大自然が相手の仕事ですから危険と隣り合わせです。こうした寝屋子の生活を通して寝屋親と寝屋子、そして寝屋子同士の間に、深い人間の絆が生まれてゆきます。

若者の中の1人が結婚した時その寝屋子は解散しますが、その絆は終生かたく結ばれていて、集落全体の若い力となってゆきます。

映像は、10組の1つ「辰吉寝屋子」での生活を軸に構成され、海女さんたちの素潜り漁や、この地に古くから伝わるコウナゴ漁、そして漁村ならではの珍しい祭りや行事を描き出してゆきます。

青原さんは勿論画面には出てきませんが、「寝屋子」の生き生きとした若者たちの姿と重ねながら見ました。

追伸
 写真が欲しいとお願いしましたら、上の写真と資料などが送られてきました。 

 青原慧水さんの略歴

 1961年に、広島市の浄土真宗の寺に生まれる。
 1985年龍谷大学仏教学科卒業。
 1986年イメージフォーラム付属映像研究所に入る。
 1988年民族文化映像研究所に入所、現在に至る。

 
演出作品には、
  
『七島正月とヒチゲー 〜鹿児島県十島村悪石島〜』(1998)
    〜16ミリ映画作品〜
  
『NONFIX・ガジュマルの樹―離島教師の10年』(1999)
    〜フジテレビ放送〜  
  他に
『赤山渋』(1993)、『山の獅子舞―檜原村湯久保』(1934)、
  
『檜原村の式三番―小沢の式三番』(1994)など。



● bU 城之内元晴さん
● bT 渡辺文樹さん
● bS 大和屋竺さん
● bR 望月六郎さん
● bQ 中村信昭さん
● bP 青原慧水さん

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